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2011年12月4日
2011年10月12日
円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿6-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿6-SmoothyBeaten Mix-
[サクセスストォリィくらい、簡単に作れるぜ]
人生の目的とやらを知ろうとして、うっかり多年に亘り群書を読んでしまうと、
種々の異説があって、ますます岐路に迷い、大いに煩悶するらしいが、
これが実に今日までも学生の通病であり、また、あまりにも死書に心酔する結果である(INOUE,E.1917/87,p.254)。
が、どんなに死書死学だけを修めたところで、結局のところ、平々凡々にして一生を送ってしまう(INOUE,E.1917/87,p.327)ものである。
せっかく人生を舞台にするなら、是非とも楽観して奮闘すべきである(INOUE,E.1917/87,p.316)。
人生においては、決して万事を悲観して光陰を徒消すべきものではない(INOUE,E.1917/87,p.316)。
何せ、悲観だの楽観だのなんてのは、
あくまで見る人の心の用い方と、見られたるものの方面の如何によって分かれるのである(INOUE,E.1917/87,p.260)。
[創始者は俺だぁ!]
井上円了の教外別伝の社会教育、および、当方が独学したところは、
いずれも、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るという態度だから、
人為というよりもむしろ自然である(INOUE,E.1917/87,p.325)。
そこで、西洋などからの学問の受け売りに嫌気が差していた当方も、
早くから、いわば製造元となった次第である(INOUE,E.1917/87,p.212)。
[近頃、意志などのお忘れ物が目立っております]
古代の聖人賢人、学者高僧といわれる人は、決して知識一辺の人ではない(INOUE,E.1917/87,p.321)。
皆、意志の頗る強固の人であった(INOUE,E.1917/87,p.321)。
のみならず、すべて人の立身成功は、やはり、知識のほうよりも意志のほうにあると思う(INOUE,E.1917/87,p.321)。
たとえ学力があっても、意志の薄弱なる者は皆、失敗し、
たとえ学がなくても、意の強いものが、結局のところ、成功している(INOUE,E.1917/87,p.321)。
今日の世人に限らず、一般的に云えるのは、薄志弱行になりたるは、
もっぱら知識の修養のみを務め、意志の修養を欠きしためである(INOUE,E.1917/87,p.321)。
さすがに意志の修養を欠いていては、決して実行だの活動だの、できるはずはない(INOUE,E.1917/87,p.321)。
東洋というかむしろ、少なくとも日本にて哲学の名残で自由業をおこなう者は、
おそらく当方をもって始めとし、且つ今でも当方のほかにはありますまいが、
従来の大思想家たちや起業家たちなどの例に倣い、
当方は、一応は哲学を専門にしたこともある者なので、
言語による制作を主として、個人で事業を展開する、という先例を開きました(INOUE,E.1899/1987,p.49)。
それ以前から、身分上は無職として、そして世間からは怠け者として、扱われながらも、
実際に様々な原案を提出したる者は、あくまで当方であるから、
その点、承知ありたし(INOUE,E.1917/87,p.373)。
平素から意志の修養をしておけば、自彊やまざるの忍耐力が進んでくる(INOUE,E.1917/87,p.324)。
忍耐力が有りさえすれば、いかなる事業をしていても、相応に成功するはずである(INOUE,E.1917/87,p.324)。
こうして、せっかく自分で人生の本務だの当方の天職だのとしたことがあるのだから、
当方は、《夢ではないときこそ人生である》、と心得て、
《吾が活動の舞台になる所こそが社会である》、と承知して、
極力、奮闘しつつ活動している(INOUE,E.1917/87,p.317)。
[独学してたら、侮る暇も、妬む暇も、ないはずだろうが]
古来東洋西洋を論ぜず、
世間に立ちてよく業を起こし功を成し、身を立て名をあげし者は、
皆(INOUE,E.1917/87,p.327)、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育を(INOUE,E.1917/87,p.325)、
受けたるものである(INOUE,E.1917/87,p.327)。
ところで世間の学者はいずれも、人の成功せしものを見て、
《あの人は無教育である、あの人は学問は皆無であるのに、どうしてあのように成功したのであろう》と評している(INOUE,E.1917/87,p.327)。
が、それは、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》が在るということを、
その学者自身が、全く知らないから、ああいう奇怪なる評を下すのであって、
実にその愚を笑わざるを得ない(INOUE,E.1917/87,p.327)。
また、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を知らないから、
せっかく今日の教育を受けても、その学び得た知識をさほど活用しないのである(INOUE,E.1917/87,p.327)。
だからこそ、願わくは死書を読んで屁理屈ばかり云う人に、
この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を修めてもらいたい(INOUE,E.1917/87,p.327)。
この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を普及する以外に、
自閉的な時弊を半ば強制的にでも矯正することはできないと、当方も正直、思う(INOUE,E.1917/87,p.327)。
井上円了の教外別伝の哲学に依るにせよ依らないにせよ、
外には世間を見る目を開き、社会の各人と天地間の万物を読み、
内には良心の声に聞き、良き知の光に導かれて、
世界の実業舞台に活躍せよ(INOUE,E.1917/87,p.347)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿6-SmoothyBeaten Mix-
[サクセスストォリィくらい、簡単に作れるぜ]
人生の目的とやらを知ろうとして、うっかり多年に亘り群書を読んでしまうと、
種々の異説があって、ますます岐路に迷い、大いに煩悶するらしいが、
これが実に今日までも学生の通病であり、また、あまりにも死書に心酔する結果である(INOUE,E.1917/87,p.254)。
が、どんなに死書死学だけを修めたところで、結局のところ、平々凡々にして一生を送ってしまう(INOUE,E.1917/87,p.327)ものである。
せっかく人生を舞台にするなら、是非とも楽観して奮闘すべきである(INOUE,E.1917/87,p.316)。
人生においては、決して万事を悲観して光陰を徒消すべきものではない(INOUE,E.1917/87,p.316)。
何せ、悲観だの楽観だのなんてのは、
あくまで見る人の心の用い方と、見られたるものの方面の如何によって分かれるのである(INOUE,E.1917/87,p.260)。
[創始者は俺だぁ!]
井上円了の教外別伝の社会教育、および、当方が独学したところは、
いずれも、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るという態度だから、
人為というよりもむしろ自然である(INOUE,E.1917/87,p.325)。
そこで、西洋などからの学問の受け売りに嫌気が差していた当方も、
早くから、いわば製造元となった次第である(INOUE,E.1917/87,p.212)。
[近頃、意志などのお忘れ物が目立っております]
古代の聖人賢人、学者高僧といわれる人は、決して知識一辺の人ではない(INOUE,E.1917/87,p.321)。
皆、意志の頗る強固の人であった(INOUE,E.1917/87,p.321)。
のみならず、すべて人の立身成功は、やはり、知識のほうよりも意志のほうにあると思う(INOUE,E.1917/87,p.321)。
たとえ学力があっても、意志の薄弱なる者は皆、失敗し、
たとえ学がなくても、意の強いものが、結局のところ、成功している(INOUE,E.1917/87,p.321)。
今日の世人に限らず、一般的に云えるのは、薄志弱行になりたるは、
もっぱら知識の修養のみを務め、意志の修養を欠きしためである(INOUE,E.1917/87,p.321)。
さすがに意志の修養を欠いていては、決して実行だの活動だの、できるはずはない(INOUE,E.1917/87,p.321)。
東洋というかむしろ、少なくとも日本にて哲学の名残で自由業をおこなう者は、
おそらく当方をもって始めとし、且つ今でも当方のほかにはありますまいが、
従来の大思想家たちや起業家たちなどの例に倣い、
当方は、一応は哲学を専門にしたこともある者なので、
言語による制作を主として、個人で事業を展開する、という先例を開きました(INOUE,E.1899/1987,p.49)。
それ以前から、身分上は無職として、そして世間からは怠け者として、扱われながらも、
実際に様々な原案を提出したる者は、あくまで当方であるから、
その点、承知ありたし(INOUE,E.1917/87,p.373)。
平素から意志の修養をしておけば、自彊やまざるの忍耐力が進んでくる(INOUE,E.1917/87,p.324)。
忍耐力が有りさえすれば、いかなる事業をしていても、相応に成功するはずである(INOUE,E.1917/87,p.324)。
こうして、せっかく自分で人生の本務だの当方の天職だのとしたことがあるのだから、
当方は、《夢ではないときこそ人生である》、と心得て、
《吾が活動の舞台になる所こそが社会である》、と承知して、
極力、奮闘しつつ活動している(INOUE,E.1917/87,p.317)。
[独学してたら、侮る暇も、妬む暇も、ないはずだろうが]
古来東洋西洋を論ぜず、
世間に立ちてよく業を起こし功を成し、身を立て名をあげし者は、
皆(INOUE,E.1917/87,p.327)、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育を(INOUE,E.1917/87,p.325)、
受けたるものである(INOUE,E.1917/87,p.327)。
ところで世間の学者はいずれも、人の成功せしものを見て、
《あの人は無教育である、あの人は学問は皆無であるのに、どうしてあのように成功したのであろう》と評している(INOUE,E.1917/87,p.327)。
が、それは、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》が在るということを、
その学者自身が、全く知らないから、ああいう奇怪なる評を下すのであって、
実にその愚を笑わざるを得ない(INOUE,E.1917/87,p.327)。
また、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を知らないから、
せっかく今日の教育を受けても、その学び得た知識をさほど活用しないのである(INOUE,E.1917/87,p.327)。
だからこそ、願わくは死書を読んで屁理屈ばかり云う人に、
この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を修めてもらいたい(INOUE,E.1917/87,p.327)。
この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を普及する以外に、
自閉的な時弊を半ば強制的にでも矯正することはできないと、当方も正直、思う(INOUE,E.1917/87,p.327)。
井上円了の教外別伝の哲学に依るにせよ依らないにせよ、
外には世間を見る目を開き、社会の各人と天地間の万物を読み、
内には良心の声に聞き、良き知の光に導かれて、
世界の実業舞台に活躍せよ(INOUE,E.1917/87,p.347)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
2011年9月29日
円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿5-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
HASHIMOTO,H.1998: 橋本秀雄『男でも女でもない性 インターセックス(半陰陽)を生きる』(青弓社、1998)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿5-SmoothyBeaten Mix-
[思い込みより事実だろ?]
たとえ当方でも、そのうちの一民たることで、国家となる(INOUE,E.1917/87,p.314)。
たとえ当方でも、そのうちの一人とするのが、社会である(INOUE,E.1917/87,p.314)。
ところで、所謂《男性社会》と所謂《女性社会》とが、我々に向けて作りだしてきやがったのは、
あいにく、"人類の性は男性と女性しか存在しない"という《思い込み》である(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
実際には、ヒトの性としては、胎生期に先天的に獲得するものであれ、後天的に獲得するものであれ、
少なくとも九つの要素があるという(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
すなわち、性染色体の構成、性腺の構成、体内の性的な器官の形態、体外の性的な器官の形態、誕生したときに医者が決定する性、戸籍の性(男女別)、二次性徴(体液など)、性自認、性的指向である(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
このように、ヒトの性は、少なくとも《先天的な性》と《後天的な性》とが複雑に重なり合って、成立している(HASHIMOTO,H.1998,p.15)。
しかも、とりわけ性自認や性的指向や二次性徴、および内外の性的器官の形態については、かなり個人差がある(HASHIMOTO,H.1998,pp.13-28)。
よって、《人類の男性と女性の間には、多様な中間性が存在する》ということを事実として考えるのが、
性に対しての正しい認識であるはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
[改良を渋るのは、何故ですかぁ~?]
だからこそ、たとえば当方などが、以前から、性別回答欄の改正を、
すなわち《男・女・その他》あるいは《女・男・その他》という三者択一制にすることを、
唱えておるけれども、
未だに殆ど実行されておらぬ(INOUE,E.1917/87,p.374)。
日本では、未だに、《世の中には男性と女性しかいない》という、いわば迷信が定着しているので、
行政も医療機関も性教育も、すべてが、もっぱら男性と女性だけのために機能している(HASHIMOTO,H.1998,p.105)。
これは社会の風俗習慣には積年の惰力が存するからである(INOUE,E.1917/87,p.362)。
たとえば未婚か既婚かの違いだけで人間の価値まで決めつけるような風潮が、世の中にはびこっていて、
しかもそれがそのまま会社内などにも蔓延していて、
私を悩ませた(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
でもって、何やら焦りを覚えては、性的なフヱロモンを、有らん限りの力で分泌しだす(HASHIMOTO,H.1998,p.72)輩も居るが、
頼むから、私に近寄らないでほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
美しく見える人間というのは、少なくとも自分の信念で行動しているはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.97)。
では、よりにもよって、なぜ未だに旧方式を、すなわち男女別二者択一制を、固守するかというと、
おそらくこれは、ただ旧習を脱し難いというばかりでなく、
民間の事情が許さぬ点などがあるのだろう(INOUE,E.1917/87,p.374)。
しかし、規格のうえで同一の男性とか、規格のうえで標準の女性とかを、作りだしたところで、
せいぜい、その民族の子孫を、あたかも物の如くに生産したり消費したりする(HASHIMOTO,H.1998,p.189)のに便利なだけだろう。
しかも、連中が御自分で与えたはずの、その愛情は、あいにく当事者のためにはなっていないし、
しかもそのことに御自分でも気づいている(HASHIMOTO,H.1998,p.143)にも拘わらず、
軽々しく、異口同音に"愛しているから"と我々に向けて云ってくる(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
だから私も、そういう連中を憎んでいた(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
もし私に結婚を勧める既婚者連中が居るとしたら、
それはあくまで《オレの不幸をお前も体験しろ》という意味で云っているようなものであり、
少なくとも私にとってはそういう意味にしか聞こえないのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.73)。
このように、あまりにも自利心が強いが故に、おのずから当方などに向けて迷信を起こしたり、
当方などを操るどころか、神仏さえも道具にして己の欲を満たしたりする人が、
世間にはまだ多く居る(INOUE,E.1917/87,p.383)。
[優れて無知なる劣化コピヰ]
以上は迷信中の一例を挙げたるものだが、
この一例について考えても、わが国民一般の知識の程度がなお低い、という点をみることができる(INOUE,E.1917/87,p.379)。
だからこそ、子どもが誕生したとき、親の関心が向けられるのは、
まず《男の子? 女の子?》(HASHIMOTO,H.1998,p.11)なのだ。
しかも新生児について、あくまで《社会的な性別》を決定する状況にも拘らず、
どういうわけか、外部の性的な器官の形態によって、判断されるのが通常である(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
所謂《男性社会》か所謂《女性社会》のいずれかに組み込まれてしまった人間というのは、
すべて、生後の一定期間内に出生届が提出されてしまったせいで、
所謂《性別社会》に放り込まれて生きていく羽目になった人々なのである(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
云っておくが、《所謂"男性"と所謂"女性"の生き方以外は一切考えられない》(HASHIMOTO,H.1998,p.189)ような輩なんてのは、
せいぜい、たとえば日本人の子孫を残すためだけに優れている(HASHIMOTO,H.1998,p.189)にすぎない。
そして、かつての優生保護法の名が改まったところで、
結局、法的に保護されるのは、もっぱら《母体》だけなのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.189)。
生まれた命に対して"男の子? 女の子?あるいは"五体満足か?"などと問うのは、
《命》が生まれた時点で、その命に対して人間が評価を下す態度であり、
その態度には人間性が欠落している(HASHIMOTO,H.1998,p.125)。
[本人負担]
とにかく、もっぱら生殖のためだけの性を優先させると、
当事者において重大な弊害が様々に発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.101)。
また、ただでさえ当事者自身が自分の性とか生とかに混乱しているときに、
医師までもが一緒になって混乱した挙げ句、
当事者に余計な情報を与えてしまうこともある(HASHIMOTO,H.1998,p.115)。
当事者側からの意見(HASHIMOTO,H.1998,p.156)によれば、
子ども本人の性を、男の子として、あるいは女の子として、外野が一方的に思い込んで育てるのではなく、
子ども本人が自分の意思をもっと確認できるように、周囲から本人に習慣をつけてやってほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.156)、
とのことである。
なお改良案について、このようなことを論ずるは、
俗人なる当方のすることにしているのだから、
いっそのこと、世間の学者、とりわけ偏学者の関与すべきことに非ずとしたほうがよいのかもしれない(INOUE,E.1917/87,p.373)。
何しろ、《医療側が介入しても、あるいは介入せずそのまま放置しても》当事者において何らかの問題が発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.100)、
というのだから......。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
HASHIMOTO,H.1998: 橋本秀雄『男でも女でもない性 インターセックス(半陰陽)を生きる』(青弓社、1998)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿5-SmoothyBeaten Mix-
[思い込みより事実だろ?]
たとえ当方でも、そのうちの一民たることで、国家となる(INOUE,E.1917/87,p.314)。
たとえ当方でも、そのうちの一人とするのが、社会である(INOUE,E.1917/87,p.314)。
ところで、所謂《男性社会》と所謂《女性社会》とが、我々に向けて作りだしてきやがったのは、
あいにく、"人類の性は男性と女性しか存在しない"という《思い込み》である(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
実際には、ヒトの性としては、胎生期に先天的に獲得するものであれ、後天的に獲得するものであれ、
少なくとも九つの要素があるという(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
すなわち、性染色体の構成、性腺の構成、体内の性的な器官の形態、体外の性的な器官の形態、誕生したときに医者が決定する性、戸籍の性(男女別)、二次性徴(体液など)、性自認、性的指向である(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
このように、ヒトの性は、少なくとも《先天的な性》と《後天的な性》とが複雑に重なり合って、成立している(HASHIMOTO,H.1998,p.15)。
しかも、とりわけ性自認や性的指向や二次性徴、および内外の性的器官の形態については、かなり個人差がある(HASHIMOTO,H.1998,pp.13-28)。
よって、《人類の男性と女性の間には、多様な中間性が存在する》ということを事実として考えるのが、
性に対しての正しい認識であるはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
[改良を渋るのは、何故ですかぁ~?]
だからこそ、たとえば当方などが、以前から、性別回答欄の改正を、
すなわち《男・女・その他》あるいは《女・男・その他》という三者択一制にすることを、
唱えておるけれども、
未だに殆ど実行されておらぬ(INOUE,E.1917/87,p.374)。
日本では、未だに、《世の中には男性と女性しかいない》という、いわば迷信が定着しているので、
行政も医療機関も性教育も、すべてが、もっぱら男性と女性だけのために機能している(HASHIMOTO,H.1998,p.105)。
これは社会の風俗習慣には積年の惰力が存するからである(INOUE,E.1917/87,p.362)。
たとえば未婚か既婚かの違いだけで人間の価値まで決めつけるような風潮が、世の中にはびこっていて、
しかもそれがそのまま会社内などにも蔓延していて、
私を悩ませた(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
でもって、何やら焦りを覚えては、性的なフヱロモンを、有らん限りの力で分泌しだす(HASHIMOTO,H.1998,p.72)輩も居るが、
頼むから、私に近寄らないでほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
美しく見える人間というのは、少なくとも自分の信念で行動しているはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.97)。
では、よりにもよって、なぜ未だに旧方式を、すなわち男女別二者択一制を、固守するかというと、
おそらくこれは、ただ旧習を脱し難いというばかりでなく、
民間の事情が許さぬ点などがあるのだろう(INOUE,E.1917/87,p.374)。
しかし、規格のうえで同一の男性とか、規格のうえで標準の女性とかを、作りだしたところで、
せいぜい、その民族の子孫を、あたかも物の如くに生産したり消費したりする(HASHIMOTO,H.1998,p.189)のに便利なだけだろう。
しかも、連中が御自分で与えたはずの、その愛情は、あいにく当事者のためにはなっていないし、
しかもそのことに御自分でも気づいている(HASHIMOTO,H.1998,p.143)にも拘わらず、
軽々しく、異口同音に"愛しているから"と我々に向けて云ってくる(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
だから私も、そういう連中を憎んでいた(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
もし私に結婚を勧める既婚者連中が居るとしたら、
それはあくまで《オレの不幸をお前も体験しろ》という意味で云っているようなものであり、
少なくとも私にとってはそういう意味にしか聞こえないのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.73)。
このように、あまりにも自利心が強いが故に、おのずから当方などに向けて迷信を起こしたり、
当方などを操るどころか、神仏さえも道具にして己の欲を満たしたりする人が、
世間にはまだ多く居る(INOUE,E.1917/87,p.383)。
[優れて無知なる劣化コピヰ]
以上は迷信中の一例を挙げたるものだが、
この一例について考えても、わが国民一般の知識の程度がなお低い、という点をみることができる(INOUE,E.1917/87,p.379)。
だからこそ、子どもが誕生したとき、親の関心が向けられるのは、
まず《男の子? 女の子?》(HASHIMOTO,H.1998,p.11)なのだ。
しかも新生児について、あくまで《社会的な性別》を決定する状況にも拘らず、
どういうわけか、外部の性的な器官の形態によって、判断されるのが通常である(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
所謂《男性社会》か所謂《女性社会》のいずれかに組み込まれてしまった人間というのは、
すべて、生後の一定期間内に出生届が提出されてしまったせいで、
所謂《性別社会》に放り込まれて生きていく羽目になった人々なのである(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
云っておくが、《所謂"男性"と所謂"女性"の生き方以外は一切考えられない》(HASHIMOTO,H.1998,p.189)ような輩なんてのは、
せいぜい、たとえば日本人の子孫を残すためだけに優れている(HASHIMOTO,H.1998,p.189)にすぎない。
そして、かつての優生保護法の名が改まったところで、
結局、法的に保護されるのは、もっぱら《母体》だけなのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.189)。
生まれた命に対して"男の子? 女の子?あるいは"五体満足か?"などと問うのは、
《命》が生まれた時点で、その命に対して人間が評価を下す態度であり、
その態度には人間性が欠落している(HASHIMOTO,H.1998,p.125)。
[本人負担]
とにかく、もっぱら生殖のためだけの性を優先させると、
当事者において重大な弊害が様々に発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.101)。
また、ただでさえ当事者自身が自分の性とか生とかに混乱しているときに、
医師までもが一緒になって混乱した挙げ句、
当事者に余計な情報を与えてしまうこともある(HASHIMOTO,H.1998,p.115)。
当事者側からの意見(HASHIMOTO,H.1998,p.156)によれば、
子ども本人の性を、男の子として、あるいは女の子として、外野が一方的に思い込んで育てるのではなく、
子ども本人が自分の意思をもっと確認できるように、周囲から本人に習慣をつけてやってほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.156)、
とのことである。
なお改良案について、このようなことを論ずるは、
俗人なる当方のすることにしているのだから、
いっそのこと、世間の学者、とりわけ偏学者の関与すべきことに非ずとしたほうがよいのかもしれない(INOUE,E.1917/87,p.373)。
何しろ、《医療側が介入しても、あるいは介入せずそのまま放置しても》当事者において何らかの問題が発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.100)、
というのだから......。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
2011年9月23日
円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿4-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿4-SmoothyBeaten Mix-
[本を出すなら....]
《この書物を出版すれば必ず大当たりで儲かるに相違ない》と仰せの学者の方々から勧められて、
その書物を出版したところで、ろくに当たったことなど無く、
むしろ、学者から《こんな書物が売れるものか!》と云われたもののほうが、
いざ出版してみると案外当たることがあるという(INOUE,E.1917/87,p.218)。
これは某書林の御主人の話だ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
どうやら、《たとえ書物を見る目があったにしても、世間を見る目がない》、というのが、学者というもののようだ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
よってこの幣を除く方法として、まず、当方から人に勧めたい考えというのは、
すなわち、自分の知ったことを書にするとか、
またそれよりも、自分のおこなったことを書にするとかいうことである(INOUE,E.1917/87,p.218)。
だからといって、拙作を広告したところで、決して自慢にはならないだろう(INOUE,E.1917/87,p.318)。
[本を読むなら....]
なるべく世道人心を裨益していくためにも、
この自閉的な時弊を半ば強制的にでも矯正するほうに、力を注ぎたいものだと思うが、
この目的を達するには書籍の研究としては、
たとえば一巻の哲学史か、一冊の哲学概論を熟読することでもって足りる(INOUE,E.1917/87,p.250)のかもしれない。
要するに読書のほうは、哲学の骨目大綱を知了するにとどめよ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
決して年々歳々、雨後の竹の子の如くできる哲学の新著を通読するに及ばぬ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
[やはり、まずは読まれるものを書こうよ]
今後は、《自分で読んでみて解しやすい書が、意外にも専門的である》、ということに、
却って驚くこともあるだろう(INOUE,E.1899/1987,p.45)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿4-SmoothyBeaten Mix-
[本を出すなら....]
《この書物を出版すれば必ず大当たりで儲かるに相違ない》と仰せの学者の方々から勧められて、
その書物を出版したところで、ろくに当たったことなど無く、
むしろ、学者から《こんな書物が売れるものか!》と云われたもののほうが、
いざ出版してみると案外当たることがあるという(INOUE,E.1917/87,p.218)。
これは某書林の御主人の話だ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
どうやら、《たとえ書物を見る目があったにしても、世間を見る目がない》、というのが、学者というもののようだ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
よってこの幣を除く方法として、まず、当方から人に勧めたい考えというのは、
すなわち、自分の知ったことを書にするとか、
またそれよりも、自分のおこなったことを書にするとかいうことである(INOUE,E.1917/87,p.218)。
だからといって、拙作を広告したところで、決して自慢にはならないだろう(INOUE,E.1917/87,p.318)。
[本を読むなら....]
なるべく世道人心を裨益していくためにも、
この自閉的な時弊を半ば強制的にでも矯正するほうに、力を注ぎたいものだと思うが、
この目的を達するには書籍の研究としては、
たとえば一巻の哲学史か、一冊の哲学概論を熟読することでもって足りる(INOUE,E.1917/87,p.250)のかもしれない。
要するに読書のほうは、哲学の骨目大綱を知了するにとどめよ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
決して年々歳々、雨後の竹の子の如くできる哲学の新著を通読するに及ばぬ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
[やはり、まずは読まれるものを書こうよ]
今後は、《自分で読んでみて解しやすい書が、意外にも専門的である》、ということに、
却って驚くこともあるだろう(INOUE,E.1899/1987,p.45)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿3-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿3-SmoothyBeaten Mix-
[いくら小資本だからって、哲学で起業かよ?]
そもそも、哲学を研究するにあたっては、殆ど何も費用が要らず、安上がりなので、
私は哲学の研究を始めた(INOUE,E.1899/1987,p.53)。
[役立たず疑惑につき、反対者、続出中ですが、何か?]
ただ、たとえ哲学が面白いにせよ難しいにせよ、
哲学を学ぶ私のことを、あたかも単なる道楽か物好きに過ぎぬかの如く考えている輩は、
百人中九十九人までは居たはずだ(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
そして、哲学というこの学問を、世間での実用から最も遠ざけて、
あたかも無用であるかのように考えている輩も居る(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
更には、哲学との関係を無くしてしまえば、
国としても強くなるとか家としても富むとか考えている輩も居る(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
なるほど、今日でも、学者のなかには、
実際何らの用のない無益の空理を争い、空言を弄し、みずからこれを得意としている者が多いが、
勿論こういう輩は皆、嘲笑されるに値する(INOUE,E.1917/87,p.210)。
但し、実際に世間が無用視する類いの哲学というのは、
何よりもまず世を益し人を利する所以を知らぬばかりでなく、
哲学そのものについてさえも知らぬような、そんな哲学に限るだろう(INOUE,E.1899/1987,p.54)。
この点を決して黙過することができないからこそ、私は何年も哲学に従事してきた(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
但し、雑談したり議論したりして時間を徒消する人の真似が、私にはできないので、
私は、世の人の議論する間に自分の仕事をしている(INOUE,E.1917/87,p.349)。
しかし、私がどんなに研究に力を尽くしたところで、
周辺の者たちからは、骨折り損のくたびれもうけであるかの如く、
唱えられてしまった(INOUE,E.1899/1987,p.37)。
[資本もマインドセットも]
ところで、哲学によって私が養うのは、やはり無形の資本と遠大の思想だ(INOUE,E.1899/1987,p.60)。
したがって、もし、実業家に向けて、哲学の書類を研究するように私から望むことがあっても、
それはあくまで、《その行動に余力のある場合に限り、心掛けてほしい》という、ただそれだけのことであって、
なにも決して実業家に悉く哲学者になることを勧めるわけではない(INOUE,E.1899/1987,p.60)。
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(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿3-SmoothyBeaten Mix-
[いくら小資本だからって、哲学で起業かよ?]
そもそも、哲学を研究するにあたっては、殆ど何も費用が要らず、安上がりなので、
私は哲学の研究を始めた(INOUE,E.1899/1987,p.53)。
[役立たず疑惑につき、反対者、続出中ですが、何か?]
ただ、たとえ哲学が面白いにせよ難しいにせよ、
哲学を学ぶ私のことを、あたかも単なる道楽か物好きに過ぎぬかの如く考えている輩は、
百人中九十九人までは居たはずだ(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
そして、哲学というこの学問を、世間での実用から最も遠ざけて、
あたかも無用であるかのように考えている輩も居る(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
更には、哲学との関係を無くしてしまえば、
国としても強くなるとか家としても富むとか考えている輩も居る(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
なるほど、今日でも、学者のなかには、
実際何らの用のない無益の空理を争い、空言を弄し、みずからこれを得意としている者が多いが、
勿論こういう輩は皆、嘲笑されるに値する(INOUE,E.1917/87,p.210)。
但し、実際に世間が無用視する類いの哲学というのは、
何よりもまず世を益し人を利する所以を知らぬばかりでなく、
哲学そのものについてさえも知らぬような、そんな哲学に限るだろう(INOUE,E.1899/1987,p.54)。
この点を決して黙過することができないからこそ、私は何年も哲学に従事してきた(INOUE,E.1899/1987,p.27)。
但し、雑談したり議論したりして時間を徒消する人の真似が、私にはできないので、
私は、世の人の議論する間に自分の仕事をしている(INOUE,E.1917/87,p.349)。
しかし、私がどんなに研究に力を尽くしたところで、
周辺の者たちからは、骨折り損のくたびれもうけであるかの如く、
唱えられてしまった(INOUE,E.1899/1987,p.37)。
[資本もマインドセットも]
ところで、哲学によって私が養うのは、やはり無形の資本と遠大の思想だ(INOUE,E.1899/1987,p.60)。
したがって、もし、実業家に向けて、哲学の書類を研究するように私から望むことがあっても、
それはあくまで、《その行動に余力のある場合に限り、心掛けてほしい》という、ただそれだけのことであって、
なにも決して実業家に悉く哲学者になることを勧めるわけではない(INOUE,E.1899/1987,p.60)。
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円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿2-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿2-SmoothyBeaten Mix-
[学者を増やして、どうするつもりだったの?]
学者多くして国いよいよ貧しく、教育高くして民いよいよ苦しむ(INOUE,E.1917/87,p.210)。
今日でも自閉的なる時弊なのは、あまりにも多くの書を読み、あまりにも深く理屈を探る輩が、
却って迷いに迷いを重ね、疑いに疑いを起こし、あるいは煩悶し、あるいは自棄しているせいで、
結局、生涯に尽くしているはずの功労のうちの寸分さえも、国家や社会などに向けられていないことだ(INOUE,E.1917/87,p.257)。
学が進めば進むほど、いわゆるブラツキものが多くなり、
家は日増しに貧乏し、国はもとより疲弊するのだが、
さて、《その罪を誰に帰すべきか》、といえば、
当然、上に立ちたる学者から手本を示すのが筋ってものだろうが(INOUE,E.1917/87,p.212)。
今後は、家どころか国さえをも益してしまうほどの活き活きとした学びを興すことこそが、急務だ(INOUE,E.1917/87)。
だったら、用もなき死学屁理屈なんか、やめちまえ(INOUE,E.1917/87,p.212)。
今日でもまだ、世間の学生のなかには、多く居るらしいが、
哲学の宇宙観を知るには万巻の書籍に目をさらさざるべからずと思い、
毎日図書館に籠城して、書物と首っ引きを為す徒の、
その結果は、必ず書物に酔いて自ら立つことを知らざるに至るに相違ない(INOUE,E.1917/87,p.250)。
書物ばかり読んでいる学者は、すでに世間の事情に暗くなっている(INOUE,E.1917/87,pp.218-219)。
そして、諺に《上の好むところは下これに従う》というが如く、
いつまでも学者が率先して屁理屈ばかり説くから、
結局、学生は皆これに従う羽目になるのだが、
それだけでなく、子供までもが屁理屈をもてあそぶようになってきたようだ(INOUE,E.1917/87,p.210)。
実に嘆かわしき次第である(INOUE,E.1917/87,p.210)。
もし、このような学者のみがこれ以上世に多くなったならば、
世界の将来やら国家の前途やらまでも、
当時よりも、そして今よりも、大いに案じられることだと思う(INOUE,E.1917/87,p.210)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿2-SmoothyBeaten Mix-
[学者を増やして、どうするつもりだったの?]
学者多くして国いよいよ貧しく、教育高くして民いよいよ苦しむ(INOUE,E.1917/87,p.210)。
今日でも自閉的なる時弊なのは、あまりにも多くの書を読み、あまりにも深く理屈を探る輩が、
却って迷いに迷いを重ね、疑いに疑いを起こし、あるいは煩悶し、あるいは自棄しているせいで、
結局、生涯に尽くしているはずの功労のうちの寸分さえも、国家や社会などに向けられていないことだ(INOUE,E.1917/87,p.257)。
学が進めば進むほど、いわゆるブラツキものが多くなり、
家は日増しに貧乏し、国はもとより疲弊するのだが、
さて、《その罪を誰に帰すべきか》、といえば、
当然、上に立ちたる学者から手本を示すのが筋ってものだろうが(INOUE,E.1917/87,p.212)。
今後は、家どころか国さえをも益してしまうほどの活き活きとした学びを興すことこそが、急務だ(INOUE,E.1917/87)。
だったら、用もなき死学屁理屈なんか、やめちまえ(INOUE,E.1917/87,p.212)。
今日でもまだ、世間の学生のなかには、多く居るらしいが、
哲学の宇宙観を知るには万巻の書籍に目をさらさざるべからずと思い、
毎日図書館に籠城して、書物と首っ引きを為す徒の、
その結果は、必ず書物に酔いて自ら立つことを知らざるに至るに相違ない(INOUE,E.1917/87,p.250)。
書物ばかり読んでいる学者は、すでに世間の事情に暗くなっている(INOUE,E.1917/87,pp.218-219)。
そして、諺に《上の好むところは下これに従う》というが如く、
いつまでも学者が率先して屁理屈ばかり説くから、
結局、学生は皆これに従う羽目になるのだが、
それだけでなく、子供までもが屁理屈をもてあそぶようになってきたようだ(INOUE,E.1917/87,p.210)。
実に嘆かわしき次第である(INOUE,E.1917/87,p.210)。
もし、このような学者のみがこれ以上世に多くなったならば、
世界の将来やら国家の前途やらまでも、
当時よりも、そして今よりも、大いに案じられることだと思う(INOUE,E.1917/87,p.210)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
2011年9月22日
円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿1-SmoothyBeaten Mix-
INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿1-SmoothyBeaten Mix-
[実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
哲学は、万般の学問に関係しているかぎり、その功用だか効用だかは大なるはずなのに、
誰かさんたちがひじょうに難しくしてしまったせいで、
哲学は、一通りの人知や人通りの多い陣地なんかでは噛み砕きのできぬものになってしまった(INOUE,E.1899/1987,p.44)。
とりわけ日本における某哲学研究は、かつて専門家たちが某研究会を結成するなどして、
一時はすこぶる隆盛を極め、世界のはるかに上に超え出たこともあるらしいけれども、
その研究会は解散して、その後今日に至るまで、更なる進歩は何ら無く、
某デヱタベヱスなど、そのままに捨て置いて誰も顧みない、なんていう有様だから、
大いに衰微を来たした、というのも、尤もの次第であります、はい(INOUE,E.1899/1987,p.47)。
さて、こうした千年以上に匹敵する後れを、もし取り返そうとするなら、
今より我々が相当に大奮発せねばなりませぬ(INOUE,E.1899/1987,p.47)。ひえぇ~。
[続・実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
これは実に当時から今日に至るまで続く弊風だが、
わが国の人のなかには、学問を修めたり教育を受けたりすると、
ますます実行を離れて空想に走り、屁理屈ばかりをもてあそぶようになる者が居る(INOUE,E.1917/87,p.216)。
すなわちわが国の風潮としては、世人が傾くのは詭弁であり、学生が陥るのは懐疑である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
また、そうして出来上がった学者がやはり屁理屈一点張りであって、
学問どころか世人の生活や学生の人生までをも、己の玩弄物にしている(INOUE,E.1917/87,p.216)。
さて、この自閉的なる時弊を、半ば強制的にでも矯正する任は果たして誰に在るか、といえば、
固より一般の学者なかんずく哲学者に在るはずなのに、
その哲学者ときたら、学問を応用して社会やら国家やらまでをも裨益する方法なんぞ、
ろくに講ぜざる有様である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
ただでさえ実用に適せざる人物なのに、
さらに学問と実際との間に懸隔をおき、書物の中に籠城するものだから、
みずからますます世俗と遠ざかる、というのが今日の学者だ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
井上円了ならびに当方の本志のあるところを察してくだされば、
当方の発言が極端に走ったり、某学者の悪口ばかりを述べたりするようになるのは、自然なのだから、
ぜひ我々の発言についてはお許し願いたいものだ(INOUE,E.1917/87,p.219)。
学問が懐疑に走り、世間が詭弁に陥るという害を、今から予防するにあたって、
この予防の任に当たるべきものは主として哲学者なるべきなのだが、
某哲学者は、屁理屈の張本人にして、たとえ理事に就いたにしても、大声俚耳(りじ)に入らざるを得意としており、
いつまでも某哲学の研究の途上に居ることを気取るどころか、ひとり天下泰平を気取り、
世道人心の萎靡だか萎微だかが振るわざるを見て、《我、関せず》の態度を持ち、
然々学の牙城に巣食いつづける芋虫ごろごろ然として、
何の用も為さぬどころか、人様の足元を掬いつづける有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授は、学生や世人からの正当な要求をはぐらかし、
それ以外のことで人の歓心を得ようというふうがあるが、
これは情実的であり、決して合理的に非ず(INOUE,E.1917/87,p.362)。
某教授の講ずるところは、世人の知識の歯にて噛みこなすことのできぬを得意としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
またその説くところは、重箱の隅を針にてほじくるが如く、瑣末微細の詮議をもって大手柄としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授の展開する学問は、外面ばかり光りて見ゆるが、実用には全く適せぬ有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
もし某教授が論理学を扱っていたら、
きっと、実際には全く関係せざる事柄を喋々しく論じ立てる有様であろうし、
おそらくこれは、まるで全く事理を解せざるが如くに見えるはずから、
もしかしたら、なかなか愚鈍なのかもしれぬ(INOUE,E.1917/87,p.220)。
要するに、某学者が陥る研究なんてものは、
せいぜい己の知識欲を満たすための道楽にすぎぬ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿1-SmoothyBeaten Mix-
[実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
哲学は、万般の学問に関係しているかぎり、その功用だか効用だかは大なるはずなのに、
誰かさんたちがひじょうに難しくしてしまったせいで、
哲学は、一通りの人知や人通りの多い陣地なんかでは噛み砕きのできぬものになってしまった(INOUE,E.1899/1987,p.44)。
とりわけ日本における某哲学研究は、かつて専門家たちが某研究会を結成するなどして、
一時はすこぶる隆盛を極め、世界のはるかに上に超え出たこともあるらしいけれども、
その研究会は解散して、その後今日に至るまで、更なる進歩は何ら無く、
某デヱタベヱスなど、そのままに捨て置いて誰も顧みない、なんていう有様だから、
大いに衰微を来たした、というのも、尤もの次第であります、はい(INOUE,E.1899/1987,p.47)。
さて、こうした千年以上に匹敵する後れを、もし取り返そうとするなら、
今より我々が相当に大奮発せねばなりませぬ(INOUE,E.1899/1987,p.47)。ひえぇ~。
[続・実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
これは実に当時から今日に至るまで続く弊風だが、
わが国の人のなかには、学問を修めたり教育を受けたりすると、
ますます実行を離れて空想に走り、屁理屈ばかりをもてあそぶようになる者が居る(INOUE,E.1917/87,p.216)。
すなわちわが国の風潮としては、世人が傾くのは詭弁であり、学生が陥るのは懐疑である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
また、そうして出来上がった学者がやはり屁理屈一点張りであって、
学問どころか世人の生活や学生の人生までをも、己の玩弄物にしている(INOUE,E.1917/87,p.216)。
さて、この自閉的なる時弊を、半ば強制的にでも矯正する任は果たして誰に在るか、といえば、
固より一般の学者なかんずく哲学者に在るはずなのに、
その哲学者ときたら、学問を応用して社会やら国家やらまでをも裨益する方法なんぞ、
ろくに講ぜざる有様である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
ただでさえ実用に適せざる人物なのに、
さらに学問と実際との間に懸隔をおき、書物の中に籠城するものだから、
みずからますます世俗と遠ざかる、というのが今日の学者だ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
井上円了ならびに当方の本志のあるところを察してくだされば、
当方の発言が極端に走ったり、某学者の悪口ばかりを述べたりするようになるのは、自然なのだから、
ぜひ我々の発言についてはお許し願いたいものだ(INOUE,E.1917/87,p.219)。
学問が懐疑に走り、世間が詭弁に陥るという害を、今から予防するにあたって、
この予防の任に当たるべきものは主として哲学者なるべきなのだが、
某哲学者は、屁理屈の張本人にして、たとえ理事に就いたにしても、大声俚耳(りじ)に入らざるを得意としており、
いつまでも某哲学の研究の途上に居ることを気取るどころか、ひとり天下泰平を気取り、
世道人心の萎靡だか萎微だかが振るわざるを見て、《我、関せず》の態度を持ち、
然々学の牙城に巣食いつづける芋虫ごろごろ然として、
何の用も為さぬどころか、人様の足元を掬いつづける有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授は、学生や世人からの正当な要求をはぐらかし、
それ以外のことで人の歓心を得ようというふうがあるが、
これは情実的であり、決して合理的に非ず(INOUE,E.1917/87,p.362)。
某教授の講ずるところは、世人の知識の歯にて噛みこなすことのできぬを得意としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
またその説くところは、重箱の隅を針にてほじくるが如く、瑣末微細の詮議をもって大手柄としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授の展開する学問は、外面ばかり光りて見ゆるが、実用には全く適せぬ有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
もし某教授が論理学を扱っていたら、
きっと、実際には全く関係せざる事柄を喋々しく論じ立てる有様であろうし、
おそらくこれは、まるで全く事理を解せざるが如くに見えるはずから、
もしかしたら、なかなか愚鈍なのかもしれぬ(INOUE,E.1917/87,p.220)。
要するに、某学者が陥る研究なんてものは、
せいぜい己の知識欲を満たすための道楽にすぎぬ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.
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