INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿1-SmoothyBeaten Mix-
[実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
哲学は、万般の学問に関係しているかぎり、その功用だか効用だかは大なるはずなのに、
誰かさんたちがひじょうに難しくしてしまったせいで、
哲学は、一通りの人知や人通りの多い陣地なんかでは噛み砕きのできぬものになってしまった(INOUE,E.1899/1987,p.44)。
とりわけ日本における某哲学研究は、かつて専門家たちが某研究会を結成するなどして、
一時はすこぶる隆盛を極め、世界のはるかに上に超え出たこともあるらしいけれども、
その研究会は解散して、その後今日に至るまで、更なる進歩は何ら無く、
某デヱタベヱスなど、そのままに捨て置いて誰も顧みない、なんていう有様だから、
大いに衰微を来たした、というのも、尤もの次第であります、はい(INOUE,E.1899/1987,p.47)。
さて、こうした千年以上に匹敵する後れを、もし取り返そうとするなら、
今より我々が相当に大奮発せねばなりませぬ(INOUE,E.1899/1987,p.47)。ひえぇ~。
[続・実際に、あやふやで役立たずな、哲学研究者って、だぁ~れだ?]
これは実に当時から今日に至るまで続く弊風だが、
わが国の人のなかには、学問を修めたり教育を受けたりすると、
ますます実行を離れて空想に走り、屁理屈ばかりをもてあそぶようになる者が居る(INOUE,E.1917/87,p.216)。
すなわちわが国の風潮としては、世人が傾くのは詭弁であり、学生が陥るのは懐疑である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
また、そうして出来上がった学者がやはり屁理屈一点張りであって、
学問どころか世人の生活や学生の人生までをも、己の玩弄物にしている(INOUE,E.1917/87,p.216)。
さて、この自閉的なる時弊を、半ば強制的にでも矯正する任は果たして誰に在るか、といえば、
固より一般の学者なかんずく哲学者に在るはずなのに、
その哲学者ときたら、学問を応用して社会やら国家やらまでをも裨益する方法なんぞ、
ろくに講ぜざる有様である(INOUE,E.1917/87,p.216)。
ただでさえ実用に適せざる人物なのに、
さらに学問と実際との間に懸隔をおき、書物の中に籠城するものだから、
みずからますます世俗と遠ざかる、というのが今日の学者だ(INOUE,E.1917/87,p.218)。
井上円了ならびに当方の本志のあるところを察してくだされば、
当方の発言が極端に走ったり、某学者の悪口ばかりを述べたりするようになるのは、自然なのだから、
ぜひ我々の発言についてはお許し願いたいものだ(INOUE,E.1917/87,p.219)。
学問が懐疑に走り、世間が詭弁に陥るという害を、今から予防するにあたって、
この予防の任に当たるべきものは主として哲学者なるべきなのだが、
某哲学者は、屁理屈の張本人にして、たとえ理事に就いたにしても、大声俚耳(りじ)に入らざるを得意としており、
いつまでも某哲学の研究の途上に居ることを気取るどころか、ひとり天下泰平を気取り、
世道人心の萎靡だか萎微だかが振るわざるを見て、《我、関せず》の態度を持ち、
然々学の牙城に巣食いつづける芋虫ごろごろ然として、
何の用も為さぬどころか、人様の足元を掬いつづける有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授は、学生や世人からの正当な要求をはぐらかし、
それ以外のことで人の歓心を得ようというふうがあるが、
これは情実的であり、決して合理的に非ず(INOUE,E.1917/87,p.362)。
某教授の講ずるところは、世人の知識の歯にて噛みこなすことのできぬを得意としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
またその説くところは、重箱の隅を針にてほじくるが如く、瑣末微細の詮議をもって大手柄としている(INOUE,E.1917/87,p.220)。
某教授の展開する学問は、外面ばかり光りて見ゆるが、実用には全く適せぬ有様である(INOUE,E.1917/87,p.220)。
もし某教授が論理学を扱っていたら、
きっと、実際には全く関係せざる事柄を喋々しく論じ立てる有様であろうし、
おそらくこれは、まるで全く事理を解せざるが如くに見えるはずから、
もしかしたら、なかなか愚鈍なのかもしれぬ(INOUE,E.1917/87,p.220)。
要するに、某学者が陥る研究なんてものは、
せいぜい己の知識欲を満たすための道楽にすぎぬ(INOUE,E.1917/87,p.250)。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.