INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)
HASHIMOTO,H.1998: 橋本秀雄『男でも女でもない性 インターセックス(半陰陽)を生きる』(青弓社、1998)
「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿5-SmoothyBeaten Mix-
[思い込みより事実だろ?]
たとえ当方でも、そのうちの一民たることで、国家となる(INOUE,E.1917/87,p.314)。
たとえ当方でも、そのうちの一人とするのが、社会である(INOUE,E.1917/87,p.314)。
ところで、所謂《男性社会》と所謂《女性社会》とが、我々に向けて作りだしてきやがったのは、
あいにく、"人類の性は男性と女性しか存在しない"という《思い込み》である(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
実際には、ヒトの性としては、胎生期に先天的に獲得するものであれ、後天的に獲得するものであれ、
少なくとも九つの要素があるという(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
すなわち、性染色体の構成、性腺の構成、体内の性的な器官の形態、体外の性的な器官の形態、誕生したときに医者が決定する性、戸籍の性(男女別)、二次性徴(体液など)、性自認、性的指向である(HASHIMOTO,H.1998,p.13)。
このように、ヒトの性は、少なくとも《先天的な性》と《後天的な性》とが複雑に重なり合って、成立している(HASHIMOTO,H.1998,p.15)。
しかも、とりわけ性自認や性的指向や二次性徴、および内外の性的器官の形態については、かなり個人差がある(HASHIMOTO,H.1998,pp.13-28)。
よって、《人類の男性と女性の間には、多様な中間性が存在する》ということを事実として考えるのが、
性に対しての正しい認識であるはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.27)。
[改良を渋るのは、何故ですかぁ~?]
だからこそ、たとえば当方などが、以前から、性別回答欄の改正を、
すなわち《男・女・その他》あるいは《女・男・その他》という三者択一制にすることを、
唱えておるけれども、
未だに殆ど実行されておらぬ(INOUE,E.1917/87,p.374)。
日本では、未だに、《世の中には男性と女性しかいない》という、いわば迷信が定着しているので、
行政も医療機関も性教育も、すべてが、もっぱら男性と女性だけのために機能している(HASHIMOTO,H.1998,p.105)。
これは社会の風俗習慣には積年の惰力が存するからである(INOUE,E.1917/87,p.362)。
たとえば未婚か既婚かの違いだけで人間の価値まで決めつけるような風潮が、世の中にはびこっていて、
しかもそれがそのまま会社内などにも蔓延していて、
私を悩ませた(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
でもって、何やら焦りを覚えては、性的なフヱロモンを、有らん限りの力で分泌しだす(HASHIMOTO,H.1998,p.72)輩も居るが、
頼むから、私に近寄らないでほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.72)。
美しく見える人間というのは、少なくとも自分の信念で行動しているはずだ(HASHIMOTO,H.1998,p.97)。
では、よりにもよって、なぜ未だに旧方式を、すなわち男女別二者択一制を、固守するかというと、
おそらくこれは、ただ旧習を脱し難いというばかりでなく、
民間の事情が許さぬ点などがあるのだろう(INOUE,E.1917/87,p.374)。
しかし、規格のうえで同一の男性とか、規格のうえで標準の女性とかを、作りだしたところで、
せいぜい、その民族の子孫を、あたかも物の如くに生産したり消費したりする(HASHIMOTO,H.1998,p.189)のに便利なだけだろう。
しかも、連中が御自分で与えたはずの、その愛情は、あいにく当事者のためにはなっていないし、
しかもそのことに御自分でも気づいている(HASHIMOTO,H.1998,p.143)にも拘わらず、
軽々しく、異口同音に"愛しているから"と我々に向けて云ってくる(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
だから私も、そういう連中を憎んでいた(HASHIMOTO,H.1998,p.143)。
もし私に結婚を勧める既婚者連中が居るとしたら、
それはあくまで《オレの不幸をお前も体験しろ》という意味で云っているようなものであり、
少なくとも私にとってはそういう意味にしか聞こえないのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.73)。
このように、あまりにも自利心が強いが故に、おのずから当方などに向けて迷信を起こしたり、
当方などを操るどころか、神仏さえも道具にして己の欲を満たしたりする人が、
世間にはまだ多く居る(INOUE,E.1917/87,p.383)。
[優れて無知なる劣化コピヰ]
以上は迷信中の一例を挙げたるものだが、
この一例について考えても、わが国民一般の知識の程度がなお低い、という点をみることができる(INOUE,E.1917/87,p.379)。
だからこそ、子どもが誕生したとき、親の関心が向けられるのは、
まず《男の子? 女の子?》(HASHIMOTO,H.1998,p.11)なのだ。
しかも新生児について、あくまで《社会的な性別》を決定する状況にも拘らず、
どういうわけか、外部の性的な器官の形態によって、判断されるのが通常である(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
所謂《男性社会》か所謂《女性社会》のいずれかに組み込まれてしまった人間というのは、
すべて、生後の一定期間内に出生届が提出されてしまったせいで、
所謂《性別社会》に放り込まれて生きていく羽目になった人々なのである(HASHIMOTO,H.1998,p.11)。
云っておくが、《所謂"男性"と所謂"女性"の生き方以外は一切考えられない》(HASHIMOTO,H.1998,p.189)ような輩なんてのは、
せいぜい、たとえば日本人の子孫を残すためだけに優れている(HASHIMOTO,H.1998,p.189)にすぎない。
そして、かつての優生保護法の名が改まったところで、
結局、法的に保護されるのは、もっぱら《母体》だけなのだ(HASHIMOTO,H.1998,p.189)。
生まれた命に対して"男の子? 女の子?あるいは"五体満足か?"などと問うのは、
《命》が生まれた時点で、その命に対して人間が評価を下す態度であり、
その態度には人間性が欠落している(HASHIMOTO,H.1998,p.125)。
[本人負担]
とにかく、もっぱら生殖のためだけの性を優先させると、
当事者において重大な弊害が様々に発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.101)。
また、ただでさえ当事者自身が自分の性とか生とかに混乱しているときに、
医師までもが一緒になって混乱した挙げ句、
当事者に余計な情報を与えてしまうこともある(HASHIMOTO,H.1998,p.115)。
当事者側からの意見(HASHIMOTO,H.1998,p.156)によれば、
子ども本人の性を、男の子として、あるいは女の子として、外野が一方的に思い込んで育てるのではなく、
子ども本人が自分の意思をもっと確認できるように、周囲から本人に習慣をつけてやってほしい(HASHIMOTO,H.1998,p.156)、
とのことである。
なお改良案について、このようなことを論ずるは、
俗人なる当方のすることにしているのだから、
いっそのこと、世間の学者、とりわけ偏学者の関与すべきことに非ずとしたほうがよいのかもしれない(INOUE,E.1917/87,p.373)。
何しろ、《医療側が介入しても、あるいは介入せずそのまま放置しても》当事者において何らかの問題が発生する(HASHIMOTO,H.1998,p.100)、
というのだから......。
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.