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2011年10月12日

円了読むのに遠慮は要らねゑ:草稿6-SmoothyBeaten Mix-

INOUE,E.1899/1987: 井上円了「哲学早わかり」(明治32年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)

INOUE,E.1917/87: 井上円了「奮闘哲学」(大正6年)
(井上円了・著/東洋大学創立100周年記念論文集 編纂委員会 第一部会 部会長 高木宏夫・編
『井上円了選集 第二巻』所収、東洋大学、1987)

「円了読むのに遠慮は要らねゑ」草稿6-SmoothyBeaten Mix-
[サクセスストォリィくらい、簡単に作れるぜ]

人生の目的とやらを知ろうとして、うっかり多年に亘り群書を読んでしまうと、
種々の異説があって、ますます岐路に迷い、大いに煩悶するらしいが、
これが実に今日までも学生の通病であり、また、あまりにも死書に心酔する結果である(INOUE,E.1917/87,p.254)。

が、どんなに死書死学だけを修めたところで、結局のところ、平々凡々にして一生を送ってしまう(INOUE,E.1917/87,p.327)ものである。

せっかく人生を舞台にするなら、是非とも楽観して奮闘すべきである(INOUE,E.1917/87,p.316)。

人生においては、決して万事を悲観して光陰を徒消すべきものではない(INOUE,E.1917/87,p.316)。
何せ、悲観だの楽観だのなんてのは、
あくまで見る人の心の用い方と、見られたるものの方面の如何によって分かれるのである(INOUE,E.1917/87,p.260)。

[創始者は俺だぁ!]
井上円了の教外別伝の社会教育、および、当方が独学したところは、
いずれも、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るという態度だから、
人為というよりもむしろ自然である(INOUE,E.1917/87,p.325)。
そこで、西洋などからの学問の受け売りに嫌気が差していた当方も、
早くから、いわば製造元となった次第である(INOUE,E.1917/87,p.212)。

[近頃、意志などのお忘れ物が目立っております]

古代の聖人賢人、学者高僧といわれる人は、決して知識一辺の人ではない(INOUE,E.1917/87,p.321)。
皆、意志の頗る強固の人であった(INOUE,E.1917/87,p.321)。

のみならず、すべて人の立身成功は、やはり、知識のほうよりも意志のほうにあると思う(INOUE,E.1917/87,p.321)。

たとえ学力があっても、意志の薄弱なる者は皆、失敗し、
たとえ学がなくても、意の強いものが、結局のところ、成功している(INOUE,E.1917/87,p.321)。
今日の世人に限らず、一般的に云えるのは、薄志弱行になりたるは、
もっぱら知識の修養のみを務め、意志の修養を欠きしためである(INOUE,E.1917/87,p.321)。

さすがに意志の修養を欠いていては、決して実行だの活動だの、できるはずはない(INOUE,E.1917/87,p.321)。

東洋というかむしろ、少なくとも日本にて哲学の名残で自由業をおこなう者は、
おそらく当方をもって始めとし、且つ今でも当方のほかにはありますまいが、

従来の大思想家たちや起業家たちなどの例に倣い、
当方は、一応は哲学を専門にしたこともある者なので、
言語による制作を主として、個人で事業を展開する、という先例を開きました(INOUE,E.1899/1987,p.49)。

それ以前から、身分上は無職として、そして世間からは怠け者として、扱われながらも、
実際に様々な原案を提出したる者は、あくまで当方であるから、
その点、承知ありたし(INOUE,E.1917/87,p.373)。

平素から意志の修養をしておけば、自彊やまざるの忍耐力が進んでくる(INOUE,E.1917/87,p.324)。

忍耐力が有りさえすれば、いかなる事業をしていても、相応に成功するはずである(INOUE,E.1917/87,p.324)。

こうして、せっかく自分で人生の本務だの当方の天職だのとしたことがあるのだから、
当方は、《夢ではないときこそ人生である》、と心得て、
《吾が活動の舞台になる所こそが社会である》、と承知して、
極力、奮闘しつつ活動している(INOUE,E.1917/87,p.317)。


[独学してたら、侮る暇も、妬む暇も、ないはずだろうが]

古来東洋西洋を論ぜず、
世間に立ちてよく業を起こし功を成し、身を立て名をあげし者は、
皆(INOUE,E.1917/87,p.327)、他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育を(INOUE,E.1917/87,p.325)、
受けたるものである(INOUE,E.1917/87,p.327)。

ところで世間の学者はいずれも、人の成功せしものを見て、
《あの人は無教育である、あの人は学問は皆無であるのに、どうしてあのように成功したのであろう》と評している(INOUE,E.1917/87,p.327)。

が、それは、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》が在るということを、
その学者自身が、全く知らないから、ああいう奇怪なる評を下すのであって、
実にその愚を笑わざるを得ない(INOUE,E.1917/87,p.327)。

また、《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を知らないから、
せっかく今日の教育を受けても、その学び得た知識をさほど活用しないのである(INOUE,E.1917/87,p.327)。

だからこそ、願わくは死書を読んで屁理屈ばかり云う人に、
この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を修めてもらいたい(INOUE,E.1917/87,p.327)。

この《他人の指導を用いず、みずから社会の実況を観察して得るところの教育(INOUE,E.1917/87,p.325)》を普及する以外に、
自閉的な時弊を半ば強制的にでも矯正することはできないと、当方も正直、思う(INOUE,E.1917/87,p.327)。

井上円了の教外別伝の哲学に依るにせよ依らないにせよ、
外には世間を見る目を開き、社会の各人と天地間の万物を読み、
内には良心の声に聞き、良き知の光に導かれて、
世界の実業舞台に活躍せよ(INOUE,E.1917/87,p.347)。

produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2011.