KOBAYASHI,M.1982:小林 道夫「現代フランスにおけるデカルト研究の諸問題」
KOBAYASHI,M.1996-b:小林 道夫(解題)
MARION 1981/91:Jean-Luc Marion,《Sur la théologie blanche de Descartes》,
MARION 1986:Jean-Luc Marion《Sur le prisme métaphysique de Descartes》,
MIKAMI 1994:三上 真司「訳者あとがき」
MOCHIDA 1996:持田 辰郎
MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
MURAKAMI,K.1996-a:村上 勝三「序文--日本におけるデカルト研究」
MURAKAMI,K.2002-a:村上 勝三「私を真上に超える」
NAKAMURA 1979/2000:中村 雄二郎『共通感覚論』
SAKAI,A.1980/96:坂井 昭宏「デカルトの二元論--心身分離と心身結合の同時的存立について」
SUZUKI 1990-a:鈴木 泉
SUZUKI 1996-a:鈴木 泉「解題・解説」(ジャン-リュック・マリオン「存在-神-論」)
SUZUKI 1996-c:鈴木 泉(「訳註」)(ジャン-リュック・マリオン「存在-神-論」)
YAMADA,H.1996-b:山田 弘明「序文--フランスにおけるデカルト研究の歴史」
第0章:序
なるほど「研究者の共有財産として」、「しかも」「厳然として」在る「解釈」を、我々は「どうしても踏まえなければならない」 (MURAKAMI,K.1996-a,p.3)。しかし、現に「継承されている」「業績」は、はたして「継承されるべき」なの「かという問題」が「あ る」(MURAKAMI,K.1996-a,p.4)。とりわけ「フランスにおける研究の場合」、「精確に捉えること」の「できない」のは、「個々の研究 の内実」であり、また、「目を向けること」がないのは、「解釈」を「継承」する「過程」である(MURAKAMI,K.1996-a,p.3)。
たとえば、まるで、ただ「論」じただけでは「存在」する「差異」が「解消できない」かのように云う「人々」がいる (MURAKAMI,K.2002-a,p.231)。そのなかで、「立論」して「形而上学的」になったのは、「存在-神-論」が「最後」である (ibid.)。「論文集」等で「この」「基調」が「前提にしている」「方針」は、「規定」として「むしろすでに」或る「程度踏み固められた」 (MIKAMI 1994,p.367)ようだが、だからといって、「従来の解釈をすべて清算しようとする」のは、なかなか「僭越」だ(ibid.)。そこで、それを「デ カルトの形而上学」をとおして我々に「できるかぎり」で「論駁すること」こそが「効果的」なのであって、こうした「意図」が、「本論」では「主要」になっ ている(SAKAI,A.1980/96,p.90)。したがって、本人の「その立論」「ではない」「もの」は、「ほとんど筆者の独創による」 (SAKAI,A.1980/96,p.69)。
第1章:ジャン-リュック・マリオン
そういえば、ジャン-リュック・マリオン(Jean-Luc MARION)が「講演」したのは「京都」および「東京」であり、マリオンが「来日」するにあたって招いたのは「日仏哲学会」で、これは1994年のこと だ(SUZUKI 1996-a,p.340)。そして、マリオンが「受賞」したのは、それぞれ、「アカデミーフランセーズ哲学大賞」(1992)、「アカデミーフランセー ズ・アンリ・デマレ賞」(1982)であり(ibid.)、いかにも、マリオンが「学」んだのは「高等師範学校」であり、「生まれ」たのは1946年であ る(ibid.)。と、このように我々の「紹介する」のがもしマリオンの「略歴」だけならば「簡単」なのだが(SUZUKI 1996-a,p.340)、それにしても、だから何なんだろうか(So What?)。「中世の存在論」、「現象学」、「神学」、「ハイデガー」を「道具立て」にするマリオンは、じつに「ものものしい」(YAMADA,H.1996-b,p.9)。
そこで、「マリオン」に関して、我々が「三点」「以上」を「明確化」するのは、なかなか「意義」のある(SUZUKI 1996-a,p.337)ことだ。すなわち、第一に、「現代的な」「哲学」を「デカルト」でもって我々が「探索」するほうが「徹底的」になるというこ と、第二に、「哲学史」に至っては「ハイデガー」「から」「アリストテレス」までを「研究」すると「徹底的」になるということ、第三に、「コーパス全体」 において「デカルト」「と思われる」ものを我々が「駆使した」うえでようやく「コンピューターを」「加える」ということ、最後として第四に、「解説」のう ちの「若干」に「ついて」「解釈」する際にも我々は「デカルト」を用いるということである(ibid.)。
それでは、「以下思いつくまま列挙してみよう」(MIKAMI 1994,p.366)。
マリオンが「受賞」したのは、それぞれ、「アカデミーフランセーズ哲学大賞」(1992)、「アカデミーフランセーズ・アンリ・デマレ賞」で あり、後者は『存在なき神』によるもので、1982年のことだ(SUZUKI 1996-a,p.340)。そんな「マリオン」に「垣間見られる」「自由奔放な」「一端」とは、ほかならぬ「構想」「であろう」(YAMADA, H.1996-b,p.9)。マリオンの「所論の」「延長上にある」のは類比と理由律(1994)という「ものである」が、「この問題」を「最後のもの」 とする「三部作」が「彼」マリオンの「デカルト研究」であり、これは「マリオンの」『デカルトの形而上学のプリズムについて』で「展開されている」 (KOBAYASHI,M.1996-b,p.91)。
まず、『デカルト の形而上学のプリズムについて』(1986)が「無垢(blanche)」を「意味」するかぎり「抱えている」「無邪気さ」のせいで、マリオンにおいて 「神学は」「白紙(blanche)」にされてしまう(SUZUKI 1996-a,p.332)。ここで「第一に」「もつ」「意味」が「二つ」になる(SUZUKI 1996-a,p.330)。すなわち、よりにもよって『デカルトの白紙の神学について』(1981)が「国家博士論文」なの「である」(ibid.)。 「そして」「白紙」の「ように」されたはずの「神学」に「留まるから」、マリオンは「非決定的」になり、「匿名」の「受益者が」それに「従って」「揺れ動 く」(SUZUKI 1996-a,p.332)。
すなわち、「第一 premier」に、何やら「他の l'autre」ことについても(MARION 1986,p.59&p.383)、もっぱら「第一 première」「哲学 philosophie」という「一つ une」のことの「ため pour」だけにも拘わらず、「決断なり決心なり décisions」を「二つ deux」もすると(MARION 1986,p.34&p.383)、却ってまだ「決定されていない indéterminée」「問い question」のほうが「一つ une」になる(MARION 1986,p.9&p.383)。
「次いで」マリオンの「構成する」「存在論」が、「灰色」だという「意味に」おいて「二重」になる(SUZUKI 1996-a,p.330)。すなわち、「存在論」を「対象」と「する」のでも「なく」、さらには「意味」が「不在」であることまでも「単なる」「存在 論」になってしまった(ibid.)。このように「二重にされた redoublée」まま「論 logie」じられた「神 théo-」が「存在 onto-」するかぎり、「一つの une」(MARION 1986,p.126&p.383)「思惟 cogitatio」になる(MARION 1986,p.97&p.383)。すなわち、「存在しつつあること l'étant」がまた「存在 l'être」するということ「について sur」は、「発言 parole」されたうちの「第一 la première」に(ibid.)「論 logie」じられた「存在 onto-」のほうが、「虚無 néant」として「一つ un」になる(MARION 1986,p.73&p.383)。
これについては、「たとえば」、我々による「第三省察」の「読み取りと」、「彼」マリオンによる「分析」とを、「比べて みれば瞭然であろう」(MURAKAMI,K.1990,p.281)。「神」とは、「第一」に「デカルトにとって」〈「無限」たること〉であり、「これ こそ」が、あの、「得られた」「ことから」「検討する」という、デカルトの「第一証明」なのであって、まず「実在」するのが「神」「であると」云う「べき であろう」(SUZUKI 1990-a,p.73)。
話を元に戻すが、 そこで「絶えず」、「神と」《吾》との「間」で「送り返され」たマリオンは、あろうことか、《吾》の「似姿としての」「神」でもって、あたかも「神」が 《吾》であるかのようにしたのだが、そのせいで、この「神」の「全能」という「精神」に、「人間」が「刻み込まれる」(SUZUKI 1996-a,p.332)ことになってしまった。すなわち、「二重にされた redoublée」まま「論 logie」じられた「神 théo-」が「存在 onto-」するかぎり、「一つの une」(MARION 1986,p.126&p.383)「原因 causa」になる(MARION 1986,p.111&p.383)。すなわち、「存在しつつあること l'étant」がまた「存在 l'être」する、ということ「について sur」は、「発言 parole」されたうちの「第二の la deuxième」(ibid.)「自己 sui」のほうが「原因 causa」になる、という「原理 principe」だ(MARION 1986,p.88&p.383)。
このような「過負荷」がマリオンに〈存在〉するのを、我々は「どうしても」「避けることができない」のだが、それは、あたかも「思惟」しつつ 「構成」した「学」なり論なりでもって「神」が「存在」するかのように、マリオンが「デカルトの思索を枠づけようとする場合」(MURAKAMI, K.1990,p.278)にすぎない。
我々が「指摘できる」ところによれば、「存在論」が「灰色」になる(cf.J.-L.MARION 1975)ことによって「予め染められた」まま、「デカルト」をとおして「観念」を「把握」するのだから、「誤り」は「彼」マリオン「による」もの「であ ろう」(MURAKAMI,K.1990,p.281)。
なるほど「不一致」「の間には」「規定」されて「諸」々になっ た「本質」があるが、これはあくまで「神」「による」のだ(SUZUKI 1990-a,p.70)。となると、たとえば「無限なもの、この上もなく完全な存在者、自己原因という三つの観念の間に」「ある」「不整合性」は「J. -L.Marion に」よるものだ(MOCHIDA 1996,p.213)。このように、「規定」「が両立し得ない」のに〈「完全」だ〉とか〈「この上もない」〉とか〈「無限」だ〉とか云う 「Marion」を、我々は「閉じることにしたい」(SUZUKI 1990-a,p.72)。
そのほか、デカルトの『省察』を解釈するマリオンにおいては、たとえば「意志とか意欲とか」が「無限」にさせられたり (MARION 1981/91,p.396&p.492)、「身体や物体」の「代理として」削りだされたり(MARION 1981/91,p.347&p.492)することはあっても、決して「意志と判断とが結びつけられて論じられること」は「ない」のであって、こ れは、あくまで「このマリオン」による「解釈において」のことだ(MURAKAMI,K.1990,p.237)。
な お、「この論文に」は「見られないものの」、こうした「違い」の「大き」さ「に関して」は、マリオンの「構図」がある(SUZUKI 1996-a,p.339)。それは1982年の「デカルトと存在-神論」だ(SUZUKI 1996-a,p.339)。
この1982年の時点で「マリオン」が「デカルトについて」「公」「にしている」「書物」は「すでに」「三つ」になる(KOBAYASHI,M.1982,p.78)。
ところで、『形而上学』は「アリストテレス」に「還元されている」(SUZUKI 1996-c,p.326)が、要するに、「対象」として「純粋」に「成立し」た「認識から」「精神」を「構成する」かぎりで、その精神は「等置され」る のが「本性」だ、ということであり、「単純」に「それ」が「語られる」(ibid.)にすぎない。マリオンにとって「肯定的」なのは「これ」「である」 (ibid.)。
そういえば、「デカルトとしては」、「ほかの誰よりも克服すべき相手」は「アリストテレス」であった (NAKAMURA 1979/2000,pp.367-368)はずなのだが、マリオンにおいては、「アリストテレス」でもって「位置づける」と「歴史」が「形而上学」にな る(SUZUKI 1996-a,pp.332-333)ので、その「アリストテレス」をマリオンが「照らし出すため」に、その「諸概念」を「もたらす」はずの『規則論』に ついて「展開される」のであって、それが、『デカルトの灰色の存在論について』(1975)である(SUZUKI 1996-a,p.330)。
このように「構成する」と、とにかく「三部作」になる(SUZUKI 1996-a,p.330)。