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2008年9月27日

The DEMONstration--Part 3--再公開

KOBAYASHI,M.1996-b:小林 道夫(解題)
「ジャン=リュック・マリオン『類比と理由律との狭間に--「自己原因」の問題--』」
(『思想』No.869所収、1996年11月号、岩波書店、pp.91-92)

MARION 1981/91:Jean-Luc Marion,《Sur la théologie blanche de Descartes》,
Quadridge/PUF,1981/1991.(『デカルトの白紙の神学について』)

MIKAMI 1994:三上 真司「訳者あとがき」
(ジャン=リュック・マリオン/ギイ・プランティ=ボンジュール 編/
三上 真司・重永 哲也・檜垣 立哉 訳『現象学と形而上学』所収、法政大学出版局、1994、pp.365-375)

MIYAZAKI 1996:宮崎 隆「『情念論』における力の問題--情念の力と魂の力」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、
「第二部」pp.249-269)

MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)


SUZUKI 1990-a:鈴木 泉
「無限の形而上学--デカルト『省察』における神の実在の第一証明による--」
(哲学会 編『西洋哲学史考』哲学雑誌、第105巻第777号、有斐閣、1990、pp.57-75)

SUZUKI 1996-a:鈴木 泉「解題・解説」(ジャン-リュック・マリオン「存在-神-論」)
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996、
「第9章」pp.328-343)

SUZUKI 1996-c:鈴木 泉(「訳註」)(ジャン-リュック・マリオン「存在-神-論」)
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996、
「第9章」pp.325-327)



The DEMONstration (part 3)
for The Mat Mirror.

第3章:匍匐前進、報復前進
デカルトを用いた我々によるマリオン解釈--結局、俺のせいだった

   さて、このように「意義が」「現代的」になると「哲学」も「デカルト」になるという「点」を我々は「見て取る」(SUZUKI 1996-a,p.338)。よって、我々は、「デカルト」でもって「超出」するとともに、「そこから」我々の「捉える」「デカルトを」「創始者と」した 「モデル」でもって、マリオンのこの「存在-神-論」こそを「侵犯すべき」だ(SUZUKI 1996-a,p.338)。

   たとえば、「問い」を「存在」させる「者」が「存在」する、ということ「において」、我々は「デカルトをとおして「マリオン」を「指している」 (SUZUKI 1996-c,pp.326-327)。少なくとも、「マリオン」に「由来する」という、その「意義」で我々が「解釈」するならば、きっと「デカルト」も 「その」ように「認める」だろう(SUZUKI 1996-a,p.338)。

  なるほどこのように、「訳す」「方針によって」「翻訳」するのは「独特な」のだが、「これ」でもってじつは「マリオン」こそが「訳される」(SUZUKI 1996-c,p.326)。


*****

   そこで、「マリオン(J.-L.MARION 1981) に」よって「捉えられること」を我々が「デカルト」として歩めば「次のように」「なるであろう」(MURAKAMI,K.1990,p.68)。すなわ ち、「選択」された「文献」でもってできた(MARION 1981/91,p.457&p.492)「隔たり」も「形而上学」も(MARION 1981/91,p.455&p.492)、「自己」に「原因」があるので、これを「基礎」の「一つ」として「類比」するべく(MARION 1981/91,p.427&p.492)「思惟する私」が、もしマリオンとして「遂行」するならば(MARION 1981/91,p.370&p.492)、「基礎について」も「疑い」、その一方で「暗号」が「裏」づけられ(MARION 1981/91,p.313&p.492)、「形象化」や「歪曲化」「として」知覚されたり「知得」されたりした「暗号」が「設定」されてしまう (MARION 1981/91,p.231&p.492)。しかも、もし「ケプラー」でもって、マリオンと我々とが「デカルト」を「数学的」にすれば、単に「神 学的」なだけのものが「基礎」になってしまい(MARION 1981/91,p.178&p.492)、わざわざ「ベリュール」という人を経て「デカルト」を「神から発している」ことにしたせいで、結局 「少しも把握してない」のが「私」だ、ということになってしまうのだ(MARION 1981/91,p.140&p.491)。



  要するに、「原因」は「自己」「に至る」、ということだ(MURAKAMI,K.1990,p.69)。「たとえば」、 「指摘している」のは「マリオン」だ、という「箇所がその典型である」(MIKAMI 1994,p.367)。「それをとおして」(MURAKAMI,K.1990,p.69)「なされ」たのは、「もはや」「コード化」「ではなく」て「超 コード化」なのだが(MURAKAMI,K.1990,pp.68-69)、「その基礎づけを」する「に際して」「求め行く」「ことになり」、さらに「求 められる」「基礎づけが」「次に」「疑われることによって」、「それが」「立てられ」たのでマリオンがそれを〈永遠真理創造説〉として「創始」したとこ ろ、「自由」に「裁量」することになった、というわけだ(MURAKAMI,K.1990,p.68)。これは、「はじめから予想した」「道具立てで」 もって「事態」を、「たとえば、知覚と知覚されたもの」に、「分離」した「ゆえ」「である」(MURAKAMI,K.1990,p.69)。ちなみに、 「魂自身の本性」についての「知覚」を、「マリオンは」、あたかも「表象」を「脱立」でもするかのように、「つまり」、あたかも「領域」の「隔たり」を 「志向」するだけで「越える」ことが「知覚」であるかのように「みなそうとしているが、それに」も「いささか無理があろう」(MIYAZAKI 1996,p.268)。


*****

  以上、『デカルトの白紙の神学について』におけ る「マリオン」の「コード」が、もし充分に「理解されれば」、この「こと」の「もつ」「意味」は「逆転した」であろう(SUZUKI 1996-c,p.326)。すなわち、おそらく、「永遠な」「真理」として「創造」するべく、マリオンは「暗号」を「調停」してしまって(MARION 1981/91,p.264&p.492)いるのであり、だからこそ、わざわざ「ガリレイ」でもって「デカルト」を「科学」として「一義的」にし たり(MARION 1981/91,p.203&p.492)、「メルセンヌ」でもって「デカルト」をあたかも「永遠なもの」なるかの如く「命名し」たりするのだ が、どうやらマリオンにしてみれば、こうしておけば、たぶん「あなたがたが」それを「数学」において「真理」にしてくれるはずだ(MARION 1981/91,p.161&p.492)、ということらしい。

  このように「ほぼ意味を失っている」ような「解 釈」をするのが「マリオン」だ「ということ」であり、このことこそが、むしろ「永遠的」であり、また、あたかも「創始」した「神による」「コード」である かのように「これを」「みる」のがマリオンなのであって、このことこそが、むしろ「事実」だと云えよう(MURAKAMI,K.1990,p.59)。


神学

   なお、「神学」について「デカルト」の「与える」「基礎」に「対し」て、マリオンの「存在論」は「灰色の」「ままであった」ので、我々はそれ を「欠いた」うえで、デカルトの「基礎を」「通して」「解釈」した(SUZUKI 1996-a,p.331)。

  だから、もし「この」デカルトの「記述から取り出すこともできない」ならば、それこそ「マリオンのように」「理論」づけて「コード」にでもしようか(MURAKAMI,K.1990,p.68)。




スアレス

   なるほど、「デカルトの見解」を「強調する」にあたって、「スアレスや同時代の神学者と対比させて」いるのは「マリオン」だ(KOBAYASHI, M.1996-b,p.92)が、他方で、「スアレス」の「議論の道筋を、デカルトの歩みに当てはめるという危険をおかしている」のも、マリオンである (MURAKAMI,K.1990,p.7)。こともあろうに、まるで「スアレス説の難点を克服するという視点から」「デカルト」が「思索」を「展開」し たかのように「解釈する」のだから、マリオンはじつに「強引」だ(MURAKAMI,K.1990,p.8)。たとえば「スアレス」という「対話者」に よって「隠れた」とはいえ、「デカルト」が「扱っている」「問い」には「類比」についてのものもあるが、「実は」それさえもマリオンによって「説」として 「創造」されれば「真理」の如く「永遠」になるはずだ、ということで、『デカルトの白紙の神学について』の「第一巻」で「探られる」のだ(SUZUKI 1996-a,p.331)。すなわち、マリオン(J.-L.MARION)は「科学」を「一義的」にするにあたって、まず「デカルトにまつわる」ものを 「批判」して、あたかも「数学者」が「神」として(MARION 1981/91,p.161&p.492)「存在している」かのようにしてしまう(MARION 1981/91,p.27&p.491)。そして「一義的」になったら、「デカルトにまつわる」ものを「批判」したときに「類比」させたものを用 いて、マリオンは「神学」を「完成」させるのだが(ibid.)、じつは、「ガリレイに」到るまでに、「スアレス」という人「から」「失われた」ものこ そ、その「類比」(MARION 1981/91,p.25&p.491)なのだ。



  なるほど〈「原因」が「自己」にある〉とか〈「力能」において「この上ない」〉とかいうことは、我々からは「特に」「覆 われたままである」が(SUZUKI 1990-a,p.73)、「闇に」おいて「関係」づけられた「諸」々の「規定」「とその他の」「規定」でもって、我々は、「神」「という」ことについて は、〈「無限」たること〉を「第一に」云う「べきだろう」(SUZUKI 1990-a,p.73)。



  のみならずマリオンは、わざわざ「スアレス」という人を用いて「デカルト」の「存在していること」を「対象として」いる が、もしそこで「概念」が「創造された」ら、却ってマリオンという有限な「実体」のほうが「一義的」に「操作」されるだろう(MARION 1981/91,p.110&p.491)。


*****

  どうやらマリオン は、「デカルト」でもって「神学的な」「状況」がきっと「類比」されるので(MARION 1981/91,p.70&p.491)、「観念」を「模範」とする「主義」でもって「普遍的なもの」を「永遠」にしようとし、そして、「永遠な もの」を「真理」として「創造」しようとしたらしい(MARION 1981/91,p.27&p.491)。こうしてマリオンは、「失われた」ものを「類比」させて「永遠なもの」にするべく、それらを「真理」と して「創造」して、「デカルト」について「問い」ただそう(MARION 1981/91,p.9&p.491)としたようだ。




現象学

   マリオンが「すでに」「形成していた」「一つの伝統」によって「試み」るかぎり、「現象学」と「形而上学と」を「捉えようとする」と「葛藤」するらしい (MIKAMI 1994,pp.367-368)。他方で、我々が「デカルト」でもって「解釈」するかぎり、なるほど「マリオン」の「持った」「規模」は「壮大」になる が、ここで「喚起されるべき」「注意」が「持ち出される」(SUZUKI 1996-a,p.337)。すなわち、「デカルト」が「軸として」「参照」されているはずなのに、「研究において」は「現象学」が「展開されている」と いうことである(ibid.)。

  しかし我々が「一読すれば」、「このことは」「誰でも納得がいくであろう」 (MIKAMI 1994,p.365)。すなわち「現象学」についての「規定」が「独特な」のは、そのような規定を「与えた」「首謀者」が「ジャン=リュック・マリオ ン」だから「である」、ということだ(ibid.)。



  そういえば、マリオンにとって「あくまで」「主題」なのは、「妥当性」を「現在に」おいて「概念」化すると「現象学」に なる、ということだった(MIKAMI 1994,p.365)。「現在」とはいえ、「かなり以前から準備されていた」(MIKAMI 1994,pp.369-370)「わけである」が、「ここでの」「現在」とは、たとえば1982年「当時のことを指している」(MIKAMI 1994,p.369)こともあるのだ。マリオンが「とっている」「体裁」は、「哲学者を並べ、現象学と形而上学との関連を問うという」ものだが、これも あくまで「表面上の」「もの」である(MIKAMI 1994,p.365)にすぎない。


produced by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Oct.21,2006.