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Geminiの生成物を元にChat GPTと雑談 https://note.com/the_shynamites/n/n2b43fe5d4f83 chart--That's Fusion, Not Confusion. / med. 6.H2- https://note....

2008年10月31日

Don't be ambiguous & Let's be ambitious.(Part 4)--再公開

avec Burman:Descartes et Burman.(AT.V)(『ビュルマンとの対話』)
DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Geom.:La Geometrie.(AT.VI)(『幾何学』)
LA.-Trad.:Lettre de l'autheur a celuy qui a traduit le livre.(AT.IX-ii)(『仏訳者への書簡』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Monde-Lum.:Le Monde-Traité de la Lumiere.(AT.XI)(『世界論/光論』)
Notae:Notae in Programma.(AT.VIII-ii)(『掲貼文書への覚書』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
PP.:Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,
à Elisabeth,mai 1646,
à Elisabeth,novembre 1646,
à Elisabeth,La Haye,mars 1647.
à Marquis de Newcastle,Egmond,23 novembre 1646,
à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630,
à Mersenne,Egmond,4 avril 1648.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.


Don't be ambiguous
& Let's be ambitious.
(part 4)
for THE MAT MIRROR.

物体・身体より神--同じ場所では求め合えない

以上述べたように、一方で「多くのものが在る」のは「もちろん」のことだが(PP.1§23:AT.VIII-i,13.24)、それらは「神と求め合うこと competere ができない」(ibid.:AT.VIII-i,13.26-27)。「なぜなら」、それらが「延長」する「際の」「場所」として「同時に」(ibid.:AT.VIII-i,13.28)「在る」(ibid.:AT.VIII-i,13.29)せいで、「分割や分離をされうる」(ibid.:AT.VIII-i,13.29)からである。他方、決して「身体」でも物体でも「ない」のが「神」「である」(ibid.:AT.VIII-i,13.30)。

*****

研究の終わりを目指して現れたものについては判断しよう

「諸々の研究」には「終わり」が「ある」「にちがいない」、という我々の「気持ち ingenij を導くこと」において(Regul.1:AT.X,359.05)、我々に「立ち現れ」てくるものについては(ibid.:AT.X,359.06)、「判断」が「もたらされるはず」だ(ibid.:AT.X,359.06-07)。

完全性で頭がいっぱい

「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のは「いかに」も完全で「ない」(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)。しかし、そのように「我々によって」(ibid.:AT.VIII-i,12.13-14)「捉えられない」(ibid.:AT.VIII-i,12.14)こととして、完全たることは「我々の思惟をかなり占めているimplere」(ibid.:AT.VIII-i,12.16-17)ので、「どんな」に「制限」されても「不明瞭になる」ことは「ない」(ibid.:AT.VIII-i,12.17-18)。

我々よりも単純に意欲する神/神は決して私ではない

逆にまた、「我々において」「何か」がいかに「完全」「であっても」(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.30-31)、それはあくまで「感覚する」のが「我々」だ(ibid.:AT.VIII-i,13.31)、ということにすぎないのであって(ibid.:AT.VIII-i,13.31)、「感覚すること」がてっきり「神」の如くに「思い込まれうる」ような「様態」は、「何もない」ので「ある」(ibid.:AT.VIII-i,14.01-02)。
ところで「我々」が(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.03)「何らかの様態で」「操作なり演算なり」をすること「によって」ようやく「判明」になるものを(ibid.:AT.VIII-i,14.03-04)、「最も単純」に(ibid.:AT.VIII-i,14.05)「意欲し」たり意志をもったりする(ibid.:AT.VIII-i,14.06)のは、神だ。

但し、この神とは、決して、それについて「述べる」ところの「私」(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.06)では「ない」ような「事物」で「ある」(ibid.:AT.VIII-i,14.08)。

*****

自分を止められないのが私だが、運動は続けたくないし、指向も換えられない

「私を停止させる」のは、少なくとも「私」自身では「ない」(Monde-Lum.3:AT.XI,11.13)が、「私に」とって「充分な」のは(ibid.:AT.XI,11.14)「これである」(ibid.:AT.XI,11.16)。すなわち、「それらの」様々な「運動」を「決してやめない」ということも(ibid.:AT.XI,11.17-18)、そして、諸々の運動が「主題を」それ「以外に」「換えて」「別様に」するということも、どちらも「同じく」ありえ「ない」(ibid.:AT.XI,11.18-19)のであって、このことで充分だ。

中傷されても、幾何学で黙らせよう

いかに「私の気持ち」が「眼」の如く「眩んでいて」も、「偉大なもの」に「耐えること」くらいは「できるだろう」(Med.3:AT.VII,52.14-15)。「私」には「幾何学」が「ある」し(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.24)、そのことについて「ロブやその同類たちは(le Rob.& ses semblables)中傷することができない」のだが(ibid,:AT.V,142.25-26)、たとえ中傷できないという「このことが」「なくても」、「混乱に向かう」のはあくまで連中のほうだ(ibid.:AT.V,142.26)。しかも、「抽出されて厳密になった」ものを「幾何学的な」ものとして「受け取る」ことは、おこなわれているとおりである(Geom.2:AT.VI,389.26-27)。

秘密の力をもって喜ぼう

「私が敢えて信じる」(à Elisabeth,novembre 1646:AT.IV,529.18)ところによれば、「何らかの」「力を」「秘密」に「もつ」ことで「内的」になるのが「喜び」(ibid.:AT.IV,529.18-19)である。

否定されようのないものが、情念として現れる

なるほど「これが」「最も困難」だ、ということは「詳らかになった」(avec Burman:AT.V,163.24)。しかし「否定されること」は「いかなる様態で」も「できないはず」だ(ibid.:AT.V,163.25)。
「諸々の情念などに現れる」のが、「あれ」だ(ibid.:AT.V,163.25-26)。

宝庫は神に在り

「今」「見ていること」は、「何らかの途」として、「私には見える」が(Med.4:AT.VII,53.18)、「あらゆる宝」として「知識と知恵と」が「秘められていた」のは、「勿論」神においてなのであって(Med.4:AT.VII,53.19-21)、「他の事物」を「認識」する「ほうへ」、この途は、きっと「到着されるはず」だ(Med.4:AT.VII,53.21-22)。


LE SOUVENIR EN LE NOIR/傍に在るのは...


完全さを愛するかぎり、私が讃えるのは、神である

結局、「完全たること」を「対象」として「愛」するというのが「真な」の「である」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.26-27)。

そこで「私が称賛する」のは、「神」である(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15)。「そうした」神は「光」としても「広大」であり、その「麗しさ」に(Med.3:AT.VII,52.13-14)「驚嘆し admirari」(Med.3:AT.VII,52.15-16)、「崇拝することadorare」(Med.3:AT.VII,52.16)になるのが、我々だ。

では、「ここでしばらく神そのものに没して」「瞑想」やら観想やらをするのが「悦ばしい」(Med.3:AT.VII,52.12-13)。

自分で祈ったからこそ獲得できた

「我々が獲得するべく」して「それ」は(à Elisabeth,Egmond,6 octobre
1645:AT.IV,316.10-11)「獲得されている」が、これはあくまで「我々の祈りによる」のだ(ibid.:AT.IV,316.11-12)。

獣の考えはせいぜい器官のなせる業

「もっぱら云うことだけ」なら「できる」というような人(on)によると(à Marquis de Newcastle,Egmond,23 novembre 1646:AT.IV,576.05-06)、いわゆる「獣どもが思惟する」(ibid.:AT.IV,576.07-08)ということもあるらしいが、これもやはり、あくまで獣の身体における「これらの器官に結びつけられて」(ibid.:AT.IV,576.10)いるだけのようだ。

まさか神という名を引いた後で自分の空想に追従するわけがないだろう/
聴いているほうは苦労する

「云って」みれば「可笑しな ridicule」ことで「ある」が(à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630:AT.I,112.21)、まるで、神という名称を「アラブの」単語から引きだした「ドイツ人たち」が(ibid.:AT.I,112.23)「みずからの空想 ses réveries に追従している」かのように(ibid.:AT.I,112.25)、云う奴も居るらしい。しかし、それを「聴いている」人(on)は、「もっぱら苦労する」だけ(ibid.:AT.I,112.26-27)だろう。

**********

完成したら考え続けて纏めよう

こうして「完成したもの」を「知識」にする際に「適している」のは(Regul.7:AT.X,387.10)、いわば「連続的」で「中断されることなく」「運動」するように「思惟」なり思考なりして(ibid.:AT.X,387.11-12)「包括すること」だ(ibid.:AT.X,387.13)。

不完全な我々に捉えられないことが、頭の中を占めている

「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のは「いかに」も完全で「ない」(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)。しかし、そのように「我々によって」(ibid.:AT.VIII-i,12.13-14)「捉えられない」(ibid.:AT.VIII-i,12.14)こととして、完全たることは「我々の思惟をかなり占めている implere」(ibid.:AT.VIII-i,12.16-17)ので、「どんな」に「制限」されても「不明瞭になる」ことは「ない」(ibid.:AT.VIII-i,12.17-18)。

受け身になる我々を操作する神

逆にまた、「我々において」「何か」がどんなに「完全」「である」とはいえ(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.30-31)、少なくとも「受動になること pati がある」かぎり、それは「何らかのものに依拠し ab
aliquo pendere」たり(ibid.:AT.VIII-i,14.01)、何かを「意欲し velle」たりする(ibid.:AT.VIII-i,14.03)。そんな「我々」を(ibid.:AT.VIII-i,14.03)「そのようにして」「単独で per unicam」(ibid.:AT.VIII-i,14.04)「能動」的に(ibid.:AT.VIII-i,14.05)「操作するはず」(ibid.:AT.VIII-i,14.06)なのが、それどころか、「あらゆる」「事物」を(ibid.:AT.VIII-i,14.07)操作するはずなのが、神だ。

*****

嫉妬せずに警戒して何が悪い?

ところで、嫉妬とか羨望とか執着心とかいう「この情念」「そのもの」が「戻らない」まま(PA.§169:AT.XI,459.04-05)、「警戒心で」(ibid.:AT.XI,459.05)「努めて何らかの悪を避ける」という場合(ibid.:AT.XI,459.06-07)は、そうした悪を「懸念する」という「主題をもっている」人(on)が「正当な」のだ(ibid.:AT.XI,459.07-08)。
逆に、「間違っている」ままの人が「みずからを晒す」と、「悪」は「大きい」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,293.14-15)ものになる。

在るはずの幾何学で黙らせよう

いかに「私の気持ち」が「曇っていて」も、その「淵」を「支えて運ぶことのできる」のが、「偉大なもの」「だろう」(Med.3:AT.VII,52.14-15)。実際、「私」には「幾何学がある」し(à Mersenne,Egmond,4 avril
1648:AT.V,142.24)、またそうした幾何学「として」「在るにちがいない」のだが(ibid.:AT.V,142.24-25)、少なくともロブやその同類たちは(le Rob.& ses semblables)「混乱」するし、どうせ、この連中が中傷できないという「そのことは」、「変わる」ことも「ない」(ibid.:AT.V,142.26)。しかも、「抽出されて厳密になった」ものを「幾何学的な」ものとして「受け取る」ことは、おこなわれているとおりである(Geom.2:AT.VI,389.26-27)。

複雑な情念--心掛け次第で身体も楽になる

なるほど、諸々の情念は「決して単独ではない」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,408.18)。のみならず、「連結されて」「一緒に」なっている情念が「常に」「同じ」とは限ら「ない」(ibid.:AT.IV,408.19-20)。とはいえ、「全面的に情念に依存しきって」「身体」なり物体なりと快楽を「共有する」のは、魂である(PA.§
212:AT.XI,488.11-12)。


惚れた弱みも、触れた強みも...


いい感じ

となると、やはり、「完全たること」を「対象」として「愛」するというのが「真な」の「である」(àElisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.26-27)。

そこで「私が称賛する」のは、「神」である(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15)。「光」としても「広大」な(Med.3:AT.VII,52.13-14)「そうした」神に「属していること」とは、「私の傍で仕返しをし」たり(Med.3:AT.VII,52.13)、「直観し intueri」たり(Med.3:AT.VII,52.15)、「崇拝し adorare」たり(Med.3:AT.VII,52.16)することだ。

「これ」こそ(PA.§1:AT.XI,327.11)、「よい感じ」(DM.1:AT.VI,1.17)のする「情念」(PA.§1:AT.XI,327.12)だ。

遅かれ早かれ、決して偽でないのが神である


「神の存在すること」について、知覚というより「知得される」のが「いかに後で」あったか(Med.5:AT.VII,70.10)はともかく、「同時にまた」「私が知解した」(Med.5:AT.VII,70.10-11)ところによれば、「偽なる」ことの「ない」のが、「そうした」神「である」(Med.5:AT.VII,70.11-12)。

気絶して楽しめるのは、あくまで体力のおかげ

「ところで」、「物体なり身体なりについて」「按配の悪いこと indispositions」が「幾つも」「有る il y
a」(PA.§122:AT.XI,418.17)という人(on)も、「気絶に陥る」と(ibid.:AT.XI,418.18)、「極端な喜びしかな
い」、ということが「有る」(ibid.:AT.XI,418.19)。しかし、そういう人が「指摘している」のは、あくまでそうした物体なり身体なりについて「もっている」「能力」のことだ(ibid.:AT.XI,418.20)。

装う人にしてみれば、衣類も実体

いくら「牡蛎」や「海綿 les éponges など」が「在るとして」も(à Marquis de Newcastle,Egmond,23 novembre 1646:AT.IV,576.19)、「考察される」「人間が」「装い」をし「うる」かぎり(Notae:AT.VIII-ii,351.13-14)、「たとえ」「衣類」といえども、「実体である」(ibid.:AT.VIII-ii,351.16)。
しかも、「感覚」されているのは「決して」「神という」「観念」でも「魂という」観念でも「ない」もので「あって」、このことは「確実である」(DM.4:AT.VI,37.12-14)。

我慢できないから、紙と神とに触れて書こう

しかし「普段のそうしたこと」を「いかに頻繁に」(Med.1:AT.VII,19.11)「夜の休息が信じ込ませることか」(Med.1:AT.VII,19.12)...。「今」「この紙片に目を凝らす」「私が」「目覚めている」のは「確か」であり(Med.1:AT.VII,19.13-14)、「私が再認識する」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,407.02)ところによれば、「そうした」誇りやら栄誉やらを数えて感じることについて、「触れられるのをみずから妨げて」我慢
することは、「私」には「できない」のであって、「だから」こそ(ibid.:AT.IV,407.03-04)「それについて書いた」のが「私」だ(ibid.:AT.IV,407.06)。

誠実な人は国や歴史に縛られない

わざわざ「ユードクス EUDOXE」に云わせる(RV.:AT.X,502.17)までもないが、「人間」が正直で「誠実」「である」かぎり、「もはや義務づけられる」こと「なく」(RV.:AT.X,503.01-02)「知っている」のは、「ギリシア語あるいはラテン語」(RV.:AT.X,503.02-03)、そして「帝についての歴史」だが、これらが義務づけられ「ない」ような(RV.:AT.X,503.03-04)国家なり政府なりは、おそらく「ヨーロッパに在るはず」だ(RV.:AT.X,503.04-05)。
*****

何よりもまず、満足すること

それはともかく、この文書「について」「もし」「若干の」困難が「まだ残っている」場合(LA.-Trad.:AT.IX-ii,12.15-16)でも、「満足」が「第一」に「ある」(ibid.:AT.IX-ii,17.26)。なるほど、「それ以前に知られていない」真理が幾つも「あった」り(ibid.:AT.IX-ii,17.27)、我々の想像して「やらかす faire」ことが「虚偽と虚構と les foussetez & les feintes」だったり(ibid.:AT.IX-ii,17.29)する「けれども」、「充足」が(ibid.:AT.IX-ii,17.31)「常に」「ある」ということは、「比較的持続しうるし、比較的立体的」で強固だ(ibid.:AT.IX-ii,17.31-18.01)。

produced by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Oct.18,2006.