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Geminiの生成物を元にChat GPTと雑談 https://note.com/the_shynamites/n/n2b43fe5d4f83 chart--That's Fusion, Not Confusion. / med. 6.H2- https://note....

2008年10月31日

Don't be ambiguous & Let's be ambitious.(Part 2)--再公開

Diopt.:La Dioptrique.(AT.VI)(『屈折光学』)
DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650,
à Chanut,La Haye,6 juin 1647,
à Chanut,Egmond,31 mars 1649,
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,janvier 1646,
à Elisabeth,mai 1646,
à Marquis de Newcastle,Egmond,23 novembre 1646,
à Pollot?,1648?.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

Don't be ambiguous & Let's be ambitious.(part 2)
for THE MAT MIRROR.

我々の立場--まずは安らぎが必要

もし子供じみている場合は、
きっと休みと安らぎだけを欲しがるのが私だろう

第二に、「例えば」(à Chanut,La Haye,6 juin 1647:AT.V,57.10)、「子供」じみているのが「私であった」「とき」でも(ibid.:AT.V,57.11)、「私の要素 mon element」となるべき拠点とかなわばりとかを「ここに」して「居る」のは「私」では「ない」(à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650:AT.V,467.19-20)のであって、だからこそ「安静と休止しか欲望しない」のが「私」なのだ(ibid.:AT.V,467.20-21)。ただ、連中のほうは、そうしたことを善いこととも「知らずに自分たち自身で取っている」のだ(ibid.:AT.V,467.22-23)。

*****

長いものに巻かれて--異性愛者を装う義務

なるほど、必ずしも「最大である」ことが「幸福な」わけでは「ない」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,412.13)が、「みずから力に」呑まれて「置く」(ibid.:AT.IV,412.14-15)ことは、「‘運’」になる(ibid.:AT.IV,412.15)。だからこそ、「私は、あたかも眠るのがたいてい夜ではない人間であるかのように」(Med.1:AT.VII,19.08-09)みなされたまま、「最も穏健なもの」を意見として、「私は選ぶしかなかった」(DM.2:AT.VI,23.25)。

意見がよいのは認めるが、じつは私は殆ど欲がない

なるほど、「すべての水の溜まり場である」のが「海」だ(Meteor.3:AT.VI,250.04-05)。しかし、「ユードクス」に云わせる(RV.:AT.X,501.29)と却って失礼になるかもしれないが、「私が」「感謝している」のは、あくまで「あなた」がたの「意見」が「よい」(RV.:AT.X,501.29)からであって、「私がそれほど欲して」い「ない」(RV.:AT.X,501.30)、ということは、この「私の単純な発言に基づいて」(RV.:AT.X,502.01)いるはずだ。

海のなかで作ることにはあまり詳しくないし、
さすがにそれに応じるわけにはいかない

ここで「ついに」「私が云うことのできる」のは、これ「以外に何もない」(Meteor.7:AT.VI,315.23)。すなわち、「みずからを大きな海のなかに」「作って」しまうもの「について」(ibid.:AT.VI,315.24)、「私がもっている」のは、あいにく「ひどく不完全な関係とか連絡とか陳述とか des relations しかない」(ibid.:AT.VI,315.25-26)、ということだ。

だからこそ、「何に対して」も「応答してはならない n'avoir rien à répondre」のが「私」だ(à Marquis de Newcastle,Egmond,23 novembre 1646:AT.IV,576.12-13)。「真で」は「ない」くせに「類似して」「いる」ようなこと(ibid.:AT.IV,576.15)を、我々がたとえ「信じる」にしても、だからといって、それは必ずしも「すべての」動物「について」のことでは「ない」(ibid.:AT.IV,576.17)のである。

身体的なことも、我々の魂にとって自然たりうる

「あなた」がたの「質問を今」でも「経る」「私」も(à Chanut,La Haye,6 juin 1647:AT.V,56.23)、「諸々の原因に触れている」が(ibid.:AT.V,56.23-24)、「それについて私が指摘する」「二つの」ことのうちの(ibid.:AT.V,56.26)「もう一つ」は、すなわち、「身体なり物体なりのなかで」(ibid.:AT.V,56.27)のことだが、これも「我々の魂」にとって「自然」で本性的なこと「に触れている」(ibid.:AT.V,56.29)のであって、だからこそ、「敢えて企てること」をし「ない」まま、諸々の事物を「或る文書のなかで dans une lettre 演繹する」のが、「私」だ(ibid.:AT.V,56.29-30)。

*****

悪さをしていなくても進路は異なる

なるほど、「真である」かぎり「人々は」(à Elisabeth,Egmond,janvier 1646:AT.IV,352.09-10)、「理由を有する avoir raison」(ibid.:AT.IV,352.10)のであって、「みずからの力を結合すること」で「一緒に」なるのだが(ibid.:AT.IV,352.11-12)、いくら「その家 la maison の人々が」(ibid.:AT.IV,352.13)、「少しも悪さをしない」という点で「互いに一致して」いても、それぞれの「従う道」が「異なっていた」(ibid.:AT.IV,352.13-15)せいで、誰かが「そうした」財運に「遭遇する」(ibid.:AT.IV,352.16)ことになる。

あらゆる瞬間にやって来るのが死だ

「反対に」「とにかく」「何らかの力あるいは何らかの健全さ」を(à Pollot?,1648?:AT.V,557.29)「もっている」のが「我々」(ibid.:AT.V,557.30)「だからといっても」、やはり「あらゆる瞬間に来たりうる」のは死であり(ibid.:AT.V,557.31-558.01,cf.557.31)、また、我々の行動は、いかに能動的になっても、死を「許容できない」どころか、むしろその死の「原因になって」「いるはず」なのだ(ibid.:AT.V,558.02-03)。

所有するだけでは愛せない

しかも、我々や皆(on)が「軽蔑する」ところによれば、「夫」としての男が(PA.§169:AT.XI,458.20)「みずからの妻」としての女について「妬んだり執着したり」して「いる」せいで(ibid.:AT.XI,458.20-21)、この夫「自身について、あるいは」その妻について、この夫の「もっている意見」が「悪い」(ibid.:AT.XI,458.22-23)のだ。
そこで「私は云う」(PA.§169:AT.XI,458.23)。すなわち、この夫がその妻を「愛する」のは、「その仕方」で「ない」ほうが「よい」(ibid.:AT.XI,458.23-24)。さもないと、その夫なりの「愛する」(ibid.:AT.XI,458.26)ことが「成り立つ」かぎり、その妻についてこの夫は「単なる所有 la possession」だけを「もっている」(ibid.:AT.XI,459.01-02)ことになる。

但し、その夫が「懸念していた」場合は、妻を愛することそのものについての「この善を失うこと」は「ない」ので(PA.§169:AT.XI,459.02-03)、むしろ「誠実でない」のは「ともかく」この人の「妻」なる女のほう「である」(ibid.:AT.XI,459.03-04)、ということになる。

*****

何回か遣らかした後になって悔やむ者も居れば、そうでない者も居る

「何回か実験なり経験なりした」うえで「悔いを伴って」いる人(on)もいるが(Diopt.2:AT.VI,99.25-26)、その「際に」(ibid.:AT.VI,99.26)、「岸辺で」も「他の側に」「居た」人々(ibid.:AT.VI,99.27-28)もいる。

欲をもつことそのものについての責任をめぐってためらう私

ところで、たとえば「牡蛎」や「海綿 les éponges など」が「在るとして」(à Marquis de
Newcastle,Egmond,23 novembre 1646:AT.IV,576.19)、「私が懸念する」のは(ibid.:AT.IV,576.19-20)、欲望を「私がもっている」(ibid.:AT.IV,576.21)ときでも「私が居る」ということ「など」(ibid.:AT.IV,576.21)だ。

増殖と分裂は、解放せずに後で使おう

結局「このために」「要求される」「操作」は「四つのみ」であり(Regul.18:AT.X,461.12)、それらのなか「から」あまり「ここで頻繁に解放されるべき」では「ない」のが「後者の二つ」、すなわち掛け算とか増殖とかいうものと、割り算とか分岐とか分裂とかいうものと「である」(ibid.:AT.X,461.13-14)。「なぜなら」これらは「のちに」「完了されること」が「比較的容易に」なるからである(ibid.:AT.X,461.15)。

*****

差し障りがあるといっても、あくまで興味本位な輩にとってのことにすぎない

なにも「ユードクス」(RV.:AT.X,508.10)に云わせることもないのだが、「比喩」でもって対比させながら「強かによく」もまあ、発見どころか「暴露する」ものを、「最初」からわざわざ「妨害」および支障やら障害やらにしているのは、「あなた」がた(RV.:AT.X,508.10-11)なのであって、どうせ、「どんな」手段でも、あなたがた「自身のために仕え」てしまう「にちがいない」(RV.:AT.X,508.12)。そのようにまるで妨害であるかのように扱われることから、「みずからを守る」(RV.:AT.X,508.12-13)のが、我々だ。

罪悪感をもたせた奴にこそ罪がある

「私」には「想像する」ことが「何もない」(à Chanut,Egmond,31 mars 1649:AT.V,329.06)ので、「このような」こと「について」(ibid.:AT.V,329.06)、「成功」を収めるのは「悪い」こと(ibid.:AT.V,329.07)になるかもしれない、と「私は」「懸念している」が、そう「させて」いる(ibid.:AT.V,329.08)盗賊なり剽窃者なりこそが「私」から「略奪して」(ibid.:AT.V,329.10)いるのであって、難破が「私」から「取り去る」のは「生命」だ(ibid.:AT.V,329.10-11)。

身内から害されないように--落ち着けば満たされる

よって、家や国などの「身内」に「居る」「敵たち」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,218.11)を我々が「妨げるために」も(ibid.:AT.IV,218.13-14)、我々はまず敵なる「彼らが害してこない」ように(ibid.:AT.IV,218.14)するし、またその一方で、「対象のみをめぐって」「そうした」対象に(Regul.2:AT.X,362.02)「陥ること」に「適している」なら(ibid.:AT.X,362.02)、「我々の気持ちは充足すると思われる」(ibid.:AT.X,362.03-04)。

produced by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Oct.17,2006.