Diopt.:La Dioptrique.(AT.VI)(『屈折光学』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&à Chanut,La Haye,6 juin 1647,
à Elisabeth,novembre 1643,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,
à Mersenne,Endegeest,7 décembre 1642.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
Don't be ambiguous & Let's be ambitious.(Part 3)
for THE MAT MIRROR.
私の心--決して遊び目的でもなく、無防備でもない
もし怪しさだけが気になった場合は、 せいぜい身体で欲だけを感じていたのが私だろう
「例えば」(à Chanut,La Haye,6 juin 1647:AT.V,57.10)、「やぶにらみをして」いるかどうかはともかく、「少し」怪しげな(louche)のがもしその少女「だった」(ibid.:AT.V,57.12)ならば、せいぜい、「あらゆる」(Med.6:AT.VII,76.03)「欲求」(ibid.:AT.VII,76.03)だけを「そうした」物体なり身体なり「において」(ibid.:AT.VII,76.03)「感覚していた」のが「私」だ(ibid.:AT.VII,76.04)、ということになるだろう。
*****
警戒していても、まだ足りないくらいだ
「ユードクス EUDOXE」にとっては「それである」が、「にも拘わらず」(RV.:AT.X,510.11)「とても軽信的な」のが「人間たち」「であるはず」だ(RV.:AT.X,510.12)。諸々の感覚が「欺いて」くることは「何度か」あった(RV.:AT.X,510.14)ので、「我々」は「常に」みずから「挑んで」警戒している(de nous deffier)のだが(RV.:AT.X,510.15-16)、それでも連中が「我々を欺いて」誤らせたことも、「一度」とはいえ、あった(RV.:AT.X,510.16)。
恐怖を露骨に示すと、却って危ない
「充分に」「知っている」「人々」(Meteor.7:AT.VI,320.29)ならば「懸念すべき」であるような「雪崩」が、谷のなかには「在る」が(ibid,:AT.VI,320.30-31)、たとえば我々が「咳払いをする」(ibid.:AT.VI,321.01)ように、みずからの「恐れから」(ibid.:AT.VI,321.01)来る「声」は「騒音」になるのであって、これが「雪山を動かす」のでは「ないか」(ibid.:AT.VI,321.01-02)。
私が免れた増殖
「この手段をとおして、私が見ている」ものは「比較的明晰に」なるが、これは「すべて」、「私が何を為すべきか」、ということである(à Elisabeth,novembre 1643:AT.IV,38.20-21)。
なるほど、幸い「私は免れている」とはいえ、他方では「諸々の乗法」なり増殖なりが「氾濫し」たり蔓延したりしている(ibid.:AT.IV,38.23)。
ふざけるつもりで何回も遣らかした後で悔やんでも、もう許せない
「何回か実験なり経験なりした」うえで「悔いを伴って」いる人(on)もいるが(Diopt.2:AT.VI,99.25-26)、その「際に」(ibid.:AT.VI,99.26)、「ふざけるつもりで」いたからこそ(ibid.:AT.VI,99.26)、その人(on)が「傷めつけた」人々のほうは(ibid.:AT.VI,99.27)、「岸辺」の「他の側に」「居た」(ibid.:AT.VI,99.27-28)。
真剣な喜び、一過性の笑い
「一過性の」喜びは(ibid.:AT.IV,305.23)「笑いから同伴されている」(à Elisabeth,Egmond,6
octobre 1645:AT.IV,305.23-24)。「反対に」、「大きな喜び」は(ibid.:AT.IV,305.21-22)「真剣な」ものである(ibid.:AT.IV,305.22)。
欲の乏しい私でも、暴力を経験しなくて済むように...
「ここに来ること」を「私に」「提供する」のは(à Mersenne,Endegeest,7 décembre 1642:AT.III,598.10)、以上のことだ。要するに、「私は少しも欲してない」にも拘わらず、「私」がみずから「停止する」と、「どんな経験」や実験でも「する」ことに(ibid.:AT.III,598.11-12)なってしまう。となると、いかなる経験や実験にも「刻みつけられて」い「ない」「哲学」こそが「私の」もの「である」はずだ(ibid.:AT.III,598.12-13)。
身体を産ませずに、言葉を生ませる原因
「まさしく」その「原因」たるものを(Meteor.7:AT.VI,323.29)、「一度も」「見た」ことの「ない」「私」にとっては、「然るべき光景について」は(ibid.:AT.VI,323.29-30)、「迷信によって偽造されている」とか、「知らない」うちに「増やされて」いるとか(ibid.:AT.VI,323.31-324.02)にすぎないが、そんな「私」も、僅かな語を「生みだす」のであって、「どうやら」それを「許容するような」ものが、原因のすべてであるらしい(ibid.:AT.VI,324.03-04)。しかも、どうやら未知の量の数々を「ほどいていく際に」「私が見いだす」「道」のうちでも、「最も短い」ものが「比較的よい」(à Elisabeth,novembre 1643:AT.IV,38.22-23)ようだ。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),Oct.17,2006.
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&à Chanut,La Haye,6 juin 1647,
à Elisabeth,novembre 1643,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,
à Mersenne,Endegeest,7 décembre 1642.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
「例えば」(à Chanut,La Haye,6 juin 1647:AT.V,57.10)、「やぶにらみをして」いるかどうかはともかく、「少し」怪しげな(louche)のがもしその少女「だった」(ibid.:AT.V,57.12)ならば、せいぜい、「あらゆる」(Med.6:AT.VII,76.03)「欲求」(ibid.:AT.VII,76.03)だけを「そうした」物体なり身体なり「において」(ibid.:AT.VII,76.03)「感覚していた」のが「私」だ(ibid.:AT.VII,76.04)、ということになるだろう。
「ユードクス EUDOXE」にとっては「それである」が、「にも拘わらず」(RV.:AT.X,510.11)「とても軽信的な」のが「人間たち」「であるはず」だ(RV.:AT.X,510.12)。諸々の感覚が「欺いて」くることは「何度か」あった(RV.:AT.X,510.14)ので、「我々」は「常に」みずから「挑んで」警戒している(de nous deffier)のだが(RV.:AT.X,510.15-16)、それでも連中が「我々を欺いて」誤らせたことも、「一度」とはいえ、あった(RV.:AT.X,510.16)。
「充分に」「知っている」「人々」(Meteor.7:AT.VI,320.29)ならば「懸念すべき」であるような「雪崩」が、谷のなかには「在る」が(ibid,:AT.VI,320.30-31)、たとえば我々が「咳払いをする」(ibid.:AT.VI,321.01)ように、みずからの「恐れから」(ibid.:AT.VI,321.01)来る「声」は「騒音」になるのであって、これが「雪山を動かす」のでは「ないか」(ibid.:AT.VI,321.01-02)。
「この手段をとおして、私が見ている」ものは「比較的明晰に」なるが、これは「すべて」、「私が何を為すべきか」、ということである(à Elisabeth,novembre 1643:AT.IV,38.20-21)。
なるほど、幸い「私は免れている」とはいえ、他方では「諸々の乗法」なり増殖なりが「氾濫し」たり蔓延したりしている(ibid.:AT.IV,38.23)。
「何回か実験なり経験なりした」うえで「悔いを伴って」いる人(on)もいるが(Diopt.2:AT.VI,99.25-26)、その「際に」(ibid.:AT.VI,99.26)、「ふざけるつもりで」いたからこそ(ibid.:AT.VI,99.26)、その人(on)が「傷めつけた」人々のほうは(ibid.:AT.VI,99.27)、「岸辺」の「他の側に」「居た」(ibid.:AT.VI,99.27-28)。
「一過性の」喜びは(ibid.:AT.IV,305.23)「笑いから同伴されている」(à Elisabeth,Egmond,6
octobre 1645:AT.IV,305.23-24)。「反対に」、「大きな喜び」は(ibid.:AT.IV,305.21-22)「真剣な」ものである(ibid.:AT.IV,305.22)。
「ここに来ること」を「私に」「提供する」のは(à Mersenne,Endegeest,7 décembre 1642:AT.III,598.10)、以上のことだ。要するに、「私は少しも欲してない」にも拘わらず、「私」がみずから「停止する」と、「どんな経験」や実験でも「する」ことに(ibid.:AT.III,598.11-12)なってしまう。となると、いかなる経験や実験にも「刻みつけられて」い「ない」「哲学」こそが「私の」もの「である」はずだ(ibid.:AT.III,598.12-13)。
「まさしく」その「原因」たるものを(Meteor.7:AT.VI,323.29)、「一度も」「見た」ことの「ない」「私」にとっては、「然るべき光景について」は(ibid.:AT.VI,323.29-30)、「迷信によって偽造されている」とか、「知らない」うちに「増やされて」いるとか(ibid.:AT.VI,323.31-324.02)にすぎないが、そんな「私」も、僅かな語を「生みだす」のであって、「どうやら」それを「許容するような」ものが、原因のすべてであるらしい(ibid.:AT.VI,324.03-04)。しかも、どうやら未知の量の数々を「ほどいていく際に」「私が見いだす」「道」のうちでも、「最も短い」ものが「比較的よい」(à Elisabeth,novembre 1643:AT.IV,38.22-23)ようだ。