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2008年10月10日

The God is inside and beside me.--再公開/最高かい?

Praef.:Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

"The God is inside & beside me."
for The Mat Mirror.

(私には神が居る/私には神が要る)

少なくとも、「飢えや渇きや苦痛など」を「感覚」しているのが「私」であることは「確か」だ(Med.6:AT.VII,81.11)。
しかも、「あたかも混合しているかの如く」みずからの「身体にひじょうに緊密に結合している」「私」にとっては、「この ようにして」身体と「複合」して「一なるもの」となっている(Med.6:AT.VII,81.03-05)のは「自然」なことだ(ibid.: AT.VII,81.01)。
となると、「私」が(Med.6:AT.VII,81.05)「苦痛や飢えや渇きなど」を「感覚する」(ibid.: AT.VII,81.01-02)のは「自然」なことだし(ibid.:AT.VII,81.01)、このことを「云う」にあたって、「懸念すること」の 「ない」のは「私」だろう(DM.1:AT.VI,03.03)。
*****

では、「苦痛に」比較「できる」かぎりで「内的」「である」のは「何か」(Med.6:AT.VII,77.01)。こ こで、「どのよう」な「結果に」なろうとも、「私は敢えて云う」(DM.2:AT.VI,20.25)が、「私においてもっている」のは「神」という「観 念」だ(Med.3:AT.VII,52.01-02)。そして、「神」(ibid.:AT.VII,52.02)と「私の述べる」(ibid.: AT.VII,52.03)「その観念」が、「私に在る」この「観念」(ibid.:AT.VII,52.03)であるかぎり、「私は」、「思惟」すれば 「どのような様態」へも「到達すること」が「できる」(ibid.:AT.VII,52.05-06)のだ。
こうして、「どこまで」も「この観念」(Med.3:AT.VII,40.07)をとおしているとはいえ、「永遠で」 「無限で」「全知で」「全能な」(ibid.:AT.VII,40.16-17)「創造者」がすべてを事物にする、ということを「知解する」のは「私」で ある(ibid.:AT.VII,40.18)。
*****
要するに、「私に」は、「観念」としてであれ、「そのような」神が「居る」、「あるいは」、神という「その観念をもって いる」「私」が「実在する」のであって、「この一つ」のこと「から」(Med.4:AT.VII.53.12-14)「帰結する」ところによれば、「実在 する」ということは、「神が居ること Deo esse から」は「分離できない」(Med.5:AT.VII,67.03-04)。
*****

ところで、「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(Praef.: AT.VII,8.19-20)。すなわち、「知性の作用」として(ibid.:AT.VII,8.21)の意味と、「そうした作用によって表象され再現 された事物」として(ibid.:AT.VII,8.22-23)の意味とである。
すると、「神が居る」という「このこと」が、「私に出現する」(Med.4:AT.VII.53.12)。「もし」 「神」が「実在し」「ないならば」、「私」は「神を思惟することができない」のであって、このことから(Med.5:AT.VII,67.02-03)、 「したがって」、「そうした」神が「実在すること」は、「事物として真なのだ revera」(ibid.:AT.VII,67.04-05)。
逆から云えば、「もし」「神」の「実在する」ことが「事物として真で」「なかったならば」(Med.3:AT.VII, 52.02)、そもそも「神」(ibid.:AT.VII,52.02)、と「述べる」「私が」(ibid.:AT.VII,52.03)「居る」という 「このこと」を、そして、「すべてをもっている」神が「あの」ように「完全たること」(ibid.:AT.VII,52.03-04)をも、「私は把握で きない」(ibid.:AT.VII,52.04-05)のであって、「欠陥によって」「駄目にされた」以上は何ら「全面的 plane」では「ない」(ibid.:AT.VII,52.06)。
だからこそ、「私」は、「どこまで」も「この観念」(Med.3:AT.VII,40.07)をとおしたのだが、そのか ぎりでは、「最高なる」「何か」が「神」であり(ibid.:AT.VII,40.15-16)、神「みずからを除けば」「すべて」は所詮、「事物」で 「在る」(ibid.:AT.VII,40.17-18)。しかしそれでも、神の観念が「対象として事実な」のだということを、神の観念「自体」が「もっ ている」ので、「比較的」事態は「進展して」(ibid.:AT.VII,40.19)いくはずだ。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Sep.29,2006.