DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
まさか私に神が居ないわけないだろう ----The God is inside me. (for THE MAT MIRROR)
「私」であること「よりも」「完全」で「在る estre」「観念」については(DM.4:AT.VI,34.13)、「その」観念を「保持している」かぎり、「無」という「事物」が「不可能」「である」、ということが「表明されて」(DM.4:AT.VI,34.14-15)くる。となると、「劣ることなく矛盾しているのは」(DM.4:AT.VI,34.15-16)そうした無から「発生する」「何らかの事物」があるということ(DM.4:AT.VI,34.17-18)だ。さて、「その」観念が「置かれた」のは「私のなか」「である」が、このことは、「自然」であったり「本性」的であったりすることの「一つ」として「残っている」のであって、こういう「仕方で」(DM.4:AT.VI,34.19-20)「私は」、完全たることのすべてについて「何らかの観念をもつことができていた」のだ(DM.4:AT.VI,34.22-23)。
さらに、「一言で」「私」のことを「説明するために」(DM.4:AT.VI,34.23-24)、「私はこれに付け加えた」(DM.4:AT.VI,34.24)。なるほど「存在する」のが「唯一たる」ことは、「実在していた」のだが、それは「私ではなかった」(DM.4:AT.VI,34.26)。もし「やめられない」ほどに必要だから(DM.4:AT.VI,34.28)、というものが「ほか」に「何か」「あった」場合、それは「そうした」必要性から、「比較的完全」「にちがいない」(DM.4:AT.VI,34.27-29)のであって、「私が」そうした何か他のものから「獲得してしまっていた」ものを、「私は」「すべて」「もっているのだった」(DM.4:AT.VI,34.29-30)。
そこで、「私がおこなったばかり」の「諸々の推論」に「沿って」(DM.4:AT.VI,35.07)いくと、なるほど「私」にとって自然で本性的だということをみずから「受け容れうる capable」ほどには有能であったが、このことと「同じくらい」(DM.4:AT.VI,35.08-09)に、「私は」、諸々の事物のすべてについても、「私において」も、「何らかの観念を」「見いだしていた」(DM.4:AT.VI,35.10)。
まず「私が保証されて」確信していた(DM.4:AT.VI,35.11-12)ところによると、「何か」を「不完全」に「特徴づけていた」ものの(DM.4:AT.VI,35.12-13)「ほか」は「すべて」、神において「存在していた」(DM.4:AT.VI,35.13-14)。
しかも「私においてひじょうに明晰」なことを、「私はすでに認識していた」(DM.4:AT.VI,35.22-23)。すなわち、「知性にとって自然」だということは、「物体や身体にとって」自然だということから、「区別されている」ので判明である(DM.4:AT.VI,35.23-24)、と認識していた。また、「表明されて」いるところによれば、「依存」することで「一つ」「欠如」して「いる」(DM.4:AT.VI,35.25-26)。よって、「判断していた」「私が」「その」ように依存していた、ということから(DM.4:AT.VI,35.26-27)「帰結した」ところによると、「存在していた」のは神では「なく」て(DM.4:AT.VI,35.28-29)、「何らかの物体やら身体やら」、「あるいはとにかく bien 知性」による「何か諸々の」もの、「あるいは他にとって自然」で本性的なものであり、「もし」それらが「世界のなかにあったならば」(DM.4:AT.VI,35.29-31)、神の「力に依存する」のは「それら」で「在る estre」「はずだった」(DM.4:AT.VI,36.01)。
「それどころか」、「戻って」「その観念を検討する」(DM.4:AT.VI,36.22)「私が見いだしていた」ところによれば、その観念において「把握されていた」のが、「実在」するということだ(DM.4:AT.VI,36.23-24)。こうして「帰結した」ところによると、「少なくとも」「やはり aussi」「確実な」のは(DM.4:AT.VI,36.28-29)、「神」(DM.4:AT.VI,36.29)で「ある estre」、「あるいは」、神が「実在する exister」(DM.4:AT.VI,36.30)、ということである。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),Sep.29,2006.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
「私」であること「よりも」「完全」で「在る estre」「観念」については(DM.4:AT.VI,34.13)、「その」観念を「保持している」かぎり、「無」という「事物」が「不可能」「である」、ということが「表明されて」(DM.4:AT.VI,34.14-15)くる。となると、「劣ることなく矛盾しているのは」(DM.4:AT.VI,34.15-16)そうした無から「発生する」「何らかの事物」があるということ(DM.4:AT.VI,34.17-18)だ。さて、「その」観念が「置かれた」のは「私のなか」「である」が、このことは、「自然」であったり「本性」的であったりすることの「一つ」として「残っている」のであって、こういう「仕方で」(DM.4:AT.VI,34.19-20)「私は」、完全たることのすべてについて「何らかの観念をもつことができていた」のだ(DM.4:AT.VI,34.22-23)。
さらに、「一言で」「私」のことを「説明するために」(DM.4:AT.VI,34.23-24)、「私はこれに付け加えた」(DM.4:AT.VI,34.24)。なるほど「存在する」のが「唯一たる」ことは、「実在していた」のだが、それは「私ではなかった」(DM.4:AT.VI,34.26)。もし「やめられない」ほどに必要だから(DM.4:AT.VI,34.28)、というものが「ほか」に「何か」「あった」場合、それは「そうした」必要性から、「比較的完全」「にちがいない」(DM.4:AT.VI,34.27-29)のであって、「私が」そうした何か他のものから「獲得してしまっていた」ものを、「私は」「すべて」「もっているのだった」(DM.4:AT.VI,34.29-30)。
そこで、「私がおこなったばかり」の「諸々の推論」に「沿って」(DM.4:AT.VI,35.07)いくと、なるほど「私」にとって自然で本性的だということをみずから「受け容れうる capable」ほどには有能であったが、このことと「同じくらい」(DM.4:AT.VI,35.08-09)に、「私は」、諸々の事物のすべてについても、「私において」も、「何らかの観念を」「見いだしていた」(DM.4:AT.VI,35.10)。
まず「私が保証されて」確信していた(DM.4:AT.VI,35.11-12)ところによると、「何か」を「不完全」に「特徴づけていた」ものの(DM.4:AT.VI,35.12-13)「ほか」は「すべて」、神において「存在していた」(DM.4:AT.VI,35.13-14)。
しかも「私においてひじょうに明晰」なことを、「私はすでに認識していた」(DM.4:AT.VI,35.22-23)。すなわち、「知性にとって自然」だということは、「物体や身体にとって」自然だということから、「区別されている」ので判明である(DM.4:AT.VI,35.23-24)、と認識していた。また、「表明されて」いるところによれば、「依存」することで「一つ」「欠如」して「いる」(DM.4:AT.VI,35.25-26)。よって、「判断していた」「私が」「その」ように依存していた、ということから(DM.4:AT.VI,35.26-27)「帰結した」ところによると、「存在していた」のは神では「なく」て(DM.4:AT.VI,35.28-29)、「何らかの物体やら身体やら」、「あるいはとにかく bien 知性」による「何か諸々の」もの、「あるいは他にとって自然」で本性的なものであり、「もし」それらが「世界のなかにあったならば」(DM.4:AT.VI,35.29-31)、神の「力に依存する」のは「それら」で「在る estre」「はずだった」(DM.4:AT.VI,36.01)。
「それどころか」、「戻って」「その観念を検討する」(DM.4:AT.VI,36.22)「私が見いだしていた」ところによれば、その観念において「把握されていた」のが、「実在」するということだ(DM.4:AT.VI,36.23-24)。こうして「帰結した」ところによると、「少なくとも」「やはり aussi」「確実な」のは(DM.4:AT.VI,36.28-29)、「神」(DM.4:AT.VI,36.29)で「ある estre」、「あるいは」、神が「実在する exister」(DM.4:AT.VI,36.30)、ということである。