IIDZUKA 1998:飯塚 勝久「訳者あとがき
(ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス 著/飯塚 勝久 訳『デカルト伝』所収、未來社、1998、pp.403-409)
KATSURA 1964-b:桂 壽一「訳者序」
(桂 壽一 訳『哲学原理』所収、岩波文庫、1964、pp.5-10)
KOIZUMI 1996:小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
KUWAKI 1919/20:桑木 厳翼「序」
(出 隆 訳『デカルト 方法・省察・原理 哲学名著叢書』所収、大村書店、 初版1919、再版1920、pp.1-2)
MATSUDA,K.1998:松田 克進
「デカルトとスピノザ--自由意志論争の原点としての方法論」 (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998、 pp.169-180)
MURAKAMI,K.1985/2004:村上 勝三「行為と意識--見えるものを越えて」
(村上 勝三『観念と存在 デカルト研究1』所収、知泉書館、2004、pp.41-59、 初出:山口大学『文学会志』No.36,1985,pp.75-91)
MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
MURAKAMI,K.1996-a:村上 勝三「序文--日本におけるデカルト研究」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、pp.1-9)
NAKAMURA 1971:中村 雄二郎
「森 有正氏とデカルト・パスカル--『バビロンの流れのほとりにて』まで--」 (森 有正『デカルトとパスカル』所収、筑摩書房、1971、pp.513-526)
NODA 1966:野田 又夫『デカルト』(岩波新書、1966)
OCHIAI 1948/49:落合 太郎「後記」(1948年記)
(三木 清 訳『省察』所収、岩波文庫、1949、pp.159-167)
OCHIAI 1953/67-a:落合 太郎「解題」
(落合 太郎 訳『方法序説』所収、岩波文庫、1953初版、1967改版、pp.3-7)
OCHIAI 1953/67-b:落合 太郎「訳者註解」
(落合 太郎 訳『方法序説』所収、岩波文庫、1953初版、1967改版、pp.95-230)
OZAWA 1996:小澤 明也「日本におけるデカルトに関する文献(1979-94)」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、 「第三部」pp.1-31)
SAITOH,Y.2003:斎藤 慶典『シリーズ 哲学のエッセンス デカルト 「われ思う」のは誰か』
(日本放送出版協会、2003)
SAKAI,A.1980/96:坂井 昭宏
「デカルトの二元論--心身分離と心身結合の同時的存立について」 (デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、 「第一部」pp.59-90、 初出:『千葉大学教養部研究報告A』No.13、1980)
TAKEDA 1965/76:竹田 篤司『デカルトの青春--思想と実生活--』
(勁草書房、1965初版、1976新装版)
TANIGAWA 2002:谷川 多佳子『デカルト「方法序説」を読む』(岩波書店、2002)
TOKORO 1971/96:所 雄章『デカルトII』(勁草書房、1971初版、1996新装版)
TOKORO 1996:所 雄章「四〇〇年と四〇有余年と--デカルト研究の歴史を顧みて--」
(『思想』No.869所収、1996年11月号、岩波書店、pp.173-180)
YAMADA,H.1996-a:山田 弘明「人間学としてのデカルト哲学--「第六省察」の一解釈」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、 「第二部」pp.167-185)
YAMADA,H.2001-a:山田 弘明「解説」
(山田 弘明 訳『デカルト=エリザベト往復書簡』所収、講談社学術文庫、2001、pp.298-330)
YAMADA,H.2001-b:山田 弘明「あとがき」
(山田 弘明 訳『デカルト=エリザベト往復書簡』所収、講談社学術文庫、2001、pp.331-333)
YOHROH 1991:養老 孟司「解説=テキストを読む 脳の機能のきわめて明晰な表現」
(三宅 徳嘉・小池 健男・所 雄章 訳『デカルト 方法序説/省察』所収、白水社イデー選書、1991、 pp.227-233)
A Searching Mental Journey (Not "A Sentimental Journey") for THE MAT MIRROR.
(〈試作〉私記)
文献の探索
こうして、「物心二元論」という「哲学史の常識」が、「生身の人間を前にして破綻した」(SAKAI,A.1980/96,p.90)。 「物」と「心」とが「分離」しようとも、また、「身」と「心」とが「結合」しようとも、「二元性」を「論」ずることに、我々は執着も「終着」も「しない」 のであって、そのことを我々は、「旅」をする「以上に」「明らか」に「述べてきた」であろう(MURAKAMI,K.1990,pp.288-289)。
そのようななかで、《私》が「結局」経たのは「紆余曲折」であり、のちに、「その」「よう」に「変わってしまった」「傾 向」で「読書」する「こと」に「なった」(TANIGAWA 2002,p.45)。丁度、「実生活における」みずからの「無力さが依然として解決されずにいたところ」であり(TAKEDA 1965/76,p.134)、まるで「こうした事態に符丁を合わせる」かの「ように」筆者に「求められ」たのが「哲学書や哲学の教育」だったから、「分 かり易」かったのだ(MURAKAMI,K.1996-a,p.2)。また、あの「時代」には「入手することはおろか、目にする機会をもつことすら容易で はなかった」ような「文献も」、「読みたいと思った」(TOKORO 1996,p.176)。云っておくが、「これ」らがいったい「どの」ような「書物であるか」、「その」骨髄については、《私》「などが」五遍や十遍読ん だとて、「つかめるものではない」(OCHIAI 1948/49,p.166)。筆者の取り掛かったこれら先人の「仕事」について、「それ」くらいのことは「承知の」うえだ(ibid.)。それこそ、こ うした「書物」が「簡明」になることを、「もっと」「望みたい」(TOKORO 1971/96,p.365)くらいだが、たとえ我々に判るということが「なくても」、「注釈など」で「専門家の」ものが「あれば」、「それ」らをいわば 「心」の「眼」なり「直観」なりとして、「残しておきたい」(TANIGAWA 2002,p.43)。「デカルト研究者の間で引用されるような」ものを「控え目に見積もって」いるのは、おそらく我々「であろう」から、ここに「網羅さ れている」「著作」や「論文」(OZAWA 1996,pp.30-31)について、もし「面白かった」ら、是非「展開して」いただきたい(TANIGAWA 2002,p.44)。そうすれば、「研究」の「具体的」な「ところ」が、「こう」して「もっと」「みられ」るだろう(TANIGAWA 2002,p.48)。
*****
なるほど「敬意を表する」べき「これら先人たちの 仕事」「とともに」「触れておきたい」のは、「いささか私的なこと」(KATSURA 1964-b,p.9)だった。しかし「理由」にも「よる」とはいえ、「つたない」のが「著者自身」だったということを「記念碑」にして「いささか感傷 的」になることさえも、「すでに過去のものとなりつつある」(TAKEDA 1965/76,p.316)。それどころか、《私》にとっては「すでに」楽しい思い出に「なりかけて」いるのだ(OCHIAI 1948/49,p.166)。何しろ、「言葉として思いながら、その思いをどのように伝えたらよいか」、「と工夫すること」の「できる」のは《私》なの だ(MURAKAMI,K.1985/2004,p.58)。
他方で、「非難を」「受けた」「私」が「習俗一般の間」で「おこすかもしれぬ」「無規律」や戸惑いはおそらく「大きな」 もの「であろう」(OCHIAI 1953/67-b,p.168)。そこで、「かよう」に「懐疑」したことを「普遍的」にすることにした(ibid.)。
「生き残ってきた」のは「たまたま」「私」を含む当事者「たち」だ(KOIZUMI 1996,p.8)。そのように「生き残ってきた」当事者「たち」や「私」の「免れてきた」のが、「たまたま災害や事故」や「飢餓や内戦」だった (ibid.)。その「とき」に「たまたま」筆者が「読んだ」のは、「デカルト」の著作だった(YOHROH 1991,p.227)。 決して「すべて」「ではない」とはいえ、「文献表」に我々が「拾い上げたもの」は、「デカルトに関する論文」だ(OZAWA 1996,p.30)。
指導と訓練
「デカルト」を経て「訓練」したことを「学問」にするのは「かなり厳しい」が、これを「もとに」して「指導」を「先生」から受けたところ、 《私》の場合、「五年間」に及んだ(TANIGAWA 2002,p.50)。大変なものを「引き」受けた、と嘆息「すること」も「一度や二度では」なかったが、この「仕事」を筆者はみずから「志願した」から こそ、気持ちに強い「張りが」できてきたのである(OCHIAI 1948/49,p.166)。「それから」は、「とても気になって」いたことがあると、それについて「言及」していくようになった(TANIGAWA 2002,p.50)。何しろ自分で「触れることができた」うえに「身近に」なったのは、「最先端」の「研究」であり(SAITOH,Y.2003, p.125)、「デカルト」をとおして「学んだ」「仕方」で「徹底した」ら「ひとつの」「哲学」になり、しかも「相手」と「対話」する際には「デカルト」 が「勇気づけてくれた」ようなものだから、「私」は「幸いだ」(ibid.)。そして「きわめて正気のときに」筆者に「ない」のは、「不安」や「疑惑」だ (NODA 1966,p.77)。
謝意の舞(the SHYNAMITES?)
すでに「多くの方々」によって「成ったもの」(YAMADA,H.2001-b,p.332)や、「私生活の面で」の「進展を長いあいだ見 守ってくれた」(IIDZUKA 1998,p.409)「友人たちから」、筆者は「力を得て」いるので、「表しておきたい」のは「謝意」である(YAMADA,H.2001-b, p.332)。もし「この人たちのような、献身的な友人がなかったならば」、たとえ「デカルト」を用い「ながら」「といえども」、筆者が「長年月」、「学 問に専念することは」「おそらく」「できなかったであろう」(OCHIAI 1953/67-a,p.100)。
他方、そうした「方々に」「感謝する」べく「筆者を啓発してくれた」のは、じつは「数年間に」わたる「難解な」「この研 究」だ(YAMADA,H.2001-b,p.332)。「実際に」「人々の」「感覚」したことを「歴史」や「生活」にして、「鮮やかに」「生きる」う ち、筆者がその様子を「写し出している」と、「十七世紀に」なった(YAMADA,H.2001-a,p.322)。そして、「最近の」筆者の「主たる動 向」を「反映するもの」の「ひとつ」が、「デカルト研究」だった(SAKAI,A.1980/96,p.69)。しかも、当事者「個々人の」「事情」が 「さまざま」であること「も」、筆者は「編集上」で「配慮」した(MURAKAMI,K.1996-a,p.9)。なお、「十七世紀当時」の「場合」は 「書簡」として「書かれた」ようだが、「必ずしも」「私的」ではない「文書」は「意識して」「公刊」なり交換なりされたこと「がある」という (YAMADA,H.2001-b,p.331)。これらのことを是非とも「理解して戴きたい」(SAKAI,A.1980/96,p.69)。「問題と して」は「難しい」だろうか(TANIGAWA 2002,p.44)。しかし、筆者の「とらえる」ことが「どう」であれ、とらえたこと「そのもの」が「デカルト」になるのだ(ibid.)。このよう に、「私」の云わ「ねばならぬ」「もの」と、「宜を得た」とした「著作」との「上」で、学術という「こと」が、「試みられた」(KUWAKI 1919/20,p.1)。
勿論、「申し上げたい」「お礼」は「心から」のものであるが、だからといって「この場を借り」るのは、却って「先生には」御迷惑「かもしれない」(SAITOH,Y.2003,p.125)。
*****
「試み」に「詮索」が「なされている」「書物について」、我々にとって「不明」なのが「この現代」である(MURAKAMI,K.1990, p.16)。こうした「不明」な「もの」について「慎重」に「しておく」のも、「今のところ」であろう(ibid.)。もし「深入りすれば限りがない」が (KATSURA 1964-b,p.8)、たとえ「特定されたとしても」、「その著者と作品と」についてだけなのであって、「論述」したのが我々であるということは「動か ない」のだ(MURAKAMI,K.1990,p.16)。
*****
さて、森 有正(MORI,Arimasa)および我々について、「とりわけ」「変化」したのは、「日本語の文章」としての「文体」だ(NAKAMURA 1971,p.514)。「もちろん、ここで」「文体」とは、ほかならぬ「精神の姿勢そのものを意味する」のであって、「単なる修辞的な技法」だけに「か かわるものでは」ない(ibid.)。すなわち、我々の場合、「なにゆえに」「哲学的な論文」の「形式」で「手記」が「書かれるようになったか」 (NAKAMURA 1971,pp.515-516)、ということだ。
まず、「感謝」については筆者は「さきほど示した」(MATSUDA,K.1998,p.169)。それ以外で、たいて い「主題となっている」のは、「人間」が「生きる」うえで「持って」いる「痛みや欲求」である(YAMADA,H.1996-a,p.178)が、これは 《私》の「そうした研究環境」からの「影響も大きかった」(TOKORO 1996,p.176)。
そして、「自分」「が」「誰」にとっても「無害で」、しかも「誰に」とっても「有益で」あるためにも、やはり「或る人」の「身の上話が」「自分の」ものになれば「よい」(NODA 1966,p.61)だろう、ということになった。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),Oct.24,2006.
KATSURA 1964-b:桂 壽一「訳者序」
KOIZUMI 1996:小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
KUWAKI 1919/20:桑木 厳翼「序」
MATSUDA,K.1998:松田 克進
MURAKAMI,K.1985/2004:村上 勝三「行為と意識--見えるものを越えて」
MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
MURAKAMI,K.1996-a:村上 勝三「序文--日本におけるデカルト研究」
NAKAMURA 1971:中村 雄二郎
NODA 1966:野田 又夫『デカルト』(岩波新書、1966)
OCHIAI 1948/49:落合 太郎「後記」(1948年記)
OCHIAI 1953/67-a:落合 太郎「解題」
OCHIAI 1953/67-b:落合 太郎「訳者註解」
OZAWA 1996:小澤 明也「日本におけるデカルトに関する文献(1979-94)」
SAITOH,Y.2003:斎藤 慶典『シリーズ 哲学のエッセンス デカルト 「われ思う」のは誰か』
SAKAI,A.1980/96:坂井 昭宏
TAKEDA 1965/76:竹田 篤司『デカルトの青春--思想と実生活--』
TANIGAWA 2002:谷川 多佳子『デカルト「方法序説」を読む』(岩波書店、2002)
TOKORO 1971/96:所 雄章『デカルトII』(勁草書房、1971初版、1996新装版)
TOKORO 1996:所 雄章「四〇〇年と四〇有余年と--デカルト研究の歴史を顧みて--」
YAMADA,H.1996-a:山田 弘明「人間学としてのデカルト哲学--「第六省察」の一解釈」
YAMADA,H.2001-a:山田 弘明「解説」
YAMADA,H.2001-b:山田 弘明「あとがき」
YOHROH 1991:養老 孟司「解説=テキストを読む 脳の機能のきわめて明晰な表現」
こうして、「物心二元論」という「哲学史の常識」が、「生身の人間を前にして破綻した」(SAKAI,A.1980/96,p.90)。 「物」と「心」とが「分離」しようとも、また、「身」と「心」とが「結合」しようとも、「二元性」を「論」ずることに、我々は執着も「終着」も「しない」 のであって、そのことを我々は、「旅」をする「以上に」「明らか」に「述べてきた」であろう(MURAKAMI,K.1990,pp.288-289)。
そのようななかで、《私》が「結局」経たのは「紆余曲折」であり、のちに、「その」「よう」に「変わってしまった」「傾 向」で「読書」する「こと」に「なった」(TANIGAWA 2002,p.45)。丁度、「実生活における」みずからの「無力さが依然として解決されずにいたところ」であり(TAKEDA 1965/76,p.134)、まるで「こうした事態に符丁を合わせる」かの「ように」筆者に「求められ」たのが「哲学書や哲学の教育」だったから、「分 かり易」かったのだ(MURAKAMI,K.1996-a,p.2)。また、あの「時代」には「入手することはおろか、目にする機会をもつことすら容易で はなかった」ような「文献も」、「読みたいと思った」(TOKORO 1996,p.176)。云っておくが、「これ」らがいったい「どの」ような「書物であるか」、「その」骨髄については、《私》「などが」五遍や十遍読ん だとて、「つかめるものではない」(OCHIAI 1948/49,p.166)。筆者の取り掛かったこれら先人の「仕事」について、「それ」くらいのことは「承知の」うえだ(ibid.)。それこそ、こ うした「書物」が「簡明」になることを、「もっと」「望みたい」(TOKORO 1971/96,p.365)くらいだが、たとえ我々に判るということが「なくても」、「注釈など」で「専門家の」ものが「あれば」、「それ」らをいわば 「心」の「眼」なり「直観」なりとして、「残しておきたい」(TANIGAWA 2002,p.43)。「デカルト研究者の間で引用されるような」ものを「控え目に見積もって」いるのは、おそらく我々「であろう」から、ここに「網羅さ れている」「著作」や「論文」(OZAWA 1996,pp.30-31)について、もし「面白かった」ら、是非「展開して」いただきたい(TANIGAWA 2002,p.44)。そうすれば、「研究」の「具体的」な「ところ」が、「こう」して「もっと」「みられ」るだろう(TANIGAWA 2002,p.48)。
なるほど「敬意を表する」べき「これら先人たちの 仕事」「とともに」「触れておきたい」のは、「いささか私的なこと」(KATSURA 1964-b,p.9)だった。しかし「理由」にも「よる」とはいえ、「つたない」のが「著者自身」だったということを「記念碑」にして「いささか感傷 的」になることさえも、「すでに過去のものとなりつつある」(TAKEDA 1965/76,p.316)。それどころか、《私》にとっては「すでに」楽しい思い出に「なりかけて」いるのだ(OCHIAI 1948/49,p.166)。何しろ、「言葉として思いながら、その思いをどのように伝えたらよいか」、「と工夫すること」の「できる」のは《私》なの だ(MURAKAMI,K.1985/2004,p.58)。
他方で、「非難を」「受けた」「私」が「習俗一般の間」で「おこすかもしれぬ」「無規律」や戸惑いはおそらく「大きな」 もの「であろう」(OCHIAI 1953/67-b,p.168)。そこで、「かよう」に「懐疑」したことを「普遍的」にすることにした(ibid.)。
「生き残ってきた」のは「たまたま」「私」を含む当事者「たち」だ(KOIZUMI 1996,p.8)。そのように「生き残ってきた」当事者「たち」や「私」の「免れてきた」のが、「たまたま災害や事故」や「飢餓や内戦」だった (ibid.)。その「とき」に「たまたま」筆者が「読んだ」のは、「デカルト」の著作だった(YOHROH 1991,p.227)。 決して「すべて」「ではない」とはいえ、「文献表」に我々が「拾い上げたもの」は、「デカルトに関する論文」だ(OZAWA 1996,p.30)。
「デカルト」を経て「訓練」したことを「学問」にするのは「かなり厳しい」が、これを「もとに」して「指導」を「先生」から受けたところ、 《私》の場合、「五年間」に及んだ(TANIGAWA 2002,p.50)。大変なものを「引き」受けた、と嘆息「すること」も「一度や二度では」なかったが、この「仕事」を筆者はみずから「志願した」から こそ、気持ちに強い「張りが」できてきたのである(OCHIAI 1948/49,p.166)。「それから」は、「とても気になって」いたことがあると、それについて「言及」していくようになった(TANIGAWA 2002,p.50)。何しろ自分で「触れることができた」うえに「身近に」なったのは、「最先端」の「研究」であり(SAITOH,Y.2003, p.125)、「デカルト」をとおして「学んだ」「仕方」で「徹底した」ら「ひとつの」「哲学」になり、しかも「相手」と「対話」する際には「デカルト」 が「勇気づけてくれた」ようなものだから、「私」は「幸いだ」(ibid.)。そして「きわめて正気のときに」筆者に「ない」のは、「不安」や「疑惑」だ (NODA 1966,p.77)。
すでに「多くの方々」によって「成ったもの」(YAMADA,H.2001-b,p.332)や、「私生活の面で」の「進展を長いあいだ見 守ってくれた」(IIDZUKA 1998,p.409)「友人たちから」、筆者は「力を得て」いるので、「表しておきたい」のは「謝意」である(YAMADA,H.2001-b, p.332)。もし「この人たちのような、献身的な友人がなかったならば」、たとえ「デカルト」を用い「ながら」「といえども」、筆者が「長年月」、「学 問に専念することは」「おそらく」「できなかったであろう」(OCHIAI 1953/67-a,p.100)。
他方、そうした「方々に」「感謝する」べく「筆者を啓発してくれた」のは、じつは「数年間に」わたる「難解な」「この研 究」だ(YAMADA,H.2001-b,p.332)。「実際に」「人々の」「感覚」したことを「歴史」や「生活」にして、「鮮やかに」「生きる」う ち、筆者がその様子を「写し出している」と、「十七世紀に」なった(YAMADA,H.2001-a,p.322)。そして、「最近の」筆者の「主たる動 向」を「反映するもの」の「ひとつ」が、「デカルト研究」だった(SAKAI,A.1980/96,p.69)。しかも、当事者「個々人の」「事情」が 「さまざま」であること「も」、筆者は「編集上」で「配慮」した(MURAKAMI,K.1996-a,p.9)。なお、「十七世紀当時」の「場合」は 「書簡」として「書かれた」ようだが、「必ずしも」「私的」ではない「文書」は「意識して」「公刊」なり交換なりされたこと「がある」という (YAMADA,H.2001-b,p.331)。これらのことを是非とも「理解して戴きたい」(SAKAI,A.1980/96,p.69)。「問題と して」は「難しい」だろうか(TANIGAWA 2002,p.44)。しかし、筆者の「とらえる」ことが「どう」であれ、とらえたこと「そのもの」が「デカルト」になるのだ(ibid.)。このよう に、「私」の云わ「ねばならぬ」「もの」と、「宜を得た」とした「著作」との「上」で、学術という「こと」が、「試みられた」(KUWAKI 1919/20,p.1)。
勿論、「申し上げたい」「お礼」は「心から」のものであるが、だからといって「この場を借り」るのは、却って「先生には」御迷惑「かもしれない」(SAITOH,Y.2003,p.125)。
「試み」に「詮索」が「なされている」「書物について」、我々にとって「不明」なのが「この現代」である(MURAKAMI,K.1990, p.16)。こうした「不明」な「もの」について「慎重」に「しておく」のも、「今のところ」であろう(ibid.)。もし「深入りすれば限りがない」が (KATSURA 1964-b,p.8)、たとえ「特定されたとしても」、「その著者と作品と」についてだけなのであって、「論述」したのが我々であるということは「動か ない」のだ(MURAKAMI,K.1990,p.16)。
さて、森 有正(MORI,Arimasa)および我々について、「とりわけ」「変化」したのは、「日本語の文章」としての「文体」だ(NAKAMURA 1971,p.514)。「もちろん、ここで」「文体」とは、ほかならぬ「精神の姿勢そのものを意味する」のであって、「単なる修辞的な技法」だけに「か かわるものでは」ない(ibid.)。すなわち、我々の場合、「なにゆえに」「哲学的な論文」の「形式」で「手記」が「書かれるようになったか」 (NAKAMURA 1971,pp.515-516)、ということだ。
まず、「感謝」については筆者は「さきほど示した」(MATSUDA,K.1998,p.169)。それ以外で、たいて い「主題となっている」のは、「人間」が「生きる」うえで「持って」いる「痛みや欲求」である(YAMADA,H.1996-a,p.178)が、これは 《私》の「そうした研究環境」からの「影響も大きかった」(TOKORO 1996,p.176)。
そして、「自分」「が」「誰」にとっても「無害で」、しかも「誰に」とっても「有益で」あるためにも、やはり「或る人」の「身の上話が」「自分の」ものになれば「よい」(NODA 1966,p.61)だろう、ということになった。