MATSUDA,K.1996:松田 克進「デカルト心身関係論の構造論的再検討
MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
NISHIMURA,T.1993/96:
NODA 1972/77:野田 又夫「まえがき」(1972年記)
SAITOH,Y.2003:斎藤 慶典『シリーズ 哲学のエッセンス デカルト 「われ思う」のは誰か』
SAKAI,A.1980/96:坂井 昭宏「デカルトの二元論--心身分離と心身結合の同時的存立について」
SASAKI,M.1996-b:佐々木 周「Text Database René」
SAWADA 1996:澤田 直「〈自由〉と〈語る主体〉--サルトルのデカルト理解--」
TAKEDA 1965/76:竹田 篤司『デカルトの青春--思想と実生活--』
TANIGAWA 2002:谷川 多佳子『デカルト「方法序説」を読む』(岩波書店、2002)
YAMADA,H.1996-a:山田 弘明「人間学としてのデカルト哲学--「第六省察」の一解釈」
YAMAUCHI,S.1999/2000:山内 志朗「訳者あとがき」
YOHROH 1991:養老 孟司「解説=テキストを読む 脳の機能のきわめて明晰な表現」
cf. AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
「もともと」「この選集」で「目指していた」のは、「デカルトの文章をその主題に即してやや細かく分け、それらを主題毎に集めること」だった (NODA 1972/77,p.i)が、ここでは、「デカルト(DESCARTES,René 1596-1650)の著作」に限らず、「テキスト」のうちで我々が読むことのできるものを、「機械」的に(SASAKI,M.1996-b,p.33) して、「裏から」云い直す(NISHIMURA,T.1993/96,p.135)ことにする。
まず、「自然学」に関するもののみならず「デカルト」の「テクストを」「実際に」「読んで」みた(HIRAMATSU 1996,p.242)ところ、たとえば『方法序説』などは「すらすら読めるがそれだけでは表面を」ただ滑った「だけになりがちで」あり、他方、『哲学の 原理』や『情念論』については、「節が細分され」過ぎるせいで「全体の見通しを妨げているように」我々は「感ずる」(NODA 1972/77,p.i)。このように、我々に「映って」しまうかぎり、それらは「物語と」して「荒唐無稽」になり「がちである」が、それは「どうして」 なのか(HIRAMATSU 1996,p.242)。
そしてまた、「サルトル」ならびに我々「自身がこの先駆者」デカルトに「対して」もっていた「感情」は、両面に価する (SAWADA 1996,p.155)。「実際」、「評価されると同時に批判されてきた」のは、「デカルト」(YAMADA,H.1996-a,p.180)にほかなら ず、しかも「この批判」の「言葉」はなるほど「激烈」だ(SAKAI,A.1980/96,p.67)。
しかし、これらに「答えるのはいたって簡単である」(SAKAI,A.1980/96,p.67)。すなわち、まるで 「見ている」「側」が「ない」かのように「見て」いるのが、「デカルト」だ(TANIGAWA 2002,p.33)。「あるいは」、何か「欠落しているもの」を、「デカルト」は「見抜いている」(ibid.)とも云えよう。よって、こうした「筋立 ての不明な芝居」について、「背景の流れを頼りに」するだけで、「舞台上での役者の振りの意味を」も、まるで「明らかにできるか」のように「思いこむのは 危険なこと」だ(MURAKAMI,K.1990,p.8)。いかにも、それに「同意」しようが「反意」しようが、「ルネ・デカルト」の「語」を「含めた まま」で一切をいわば「衣装」として我々が「身に」まとってみると、「およそ」「あらゆる」「イデオロジー」が「考えられ」うるのだ(TAKEDA 1965/76,p.67)。「あからさまに」云わ「ない」のが「デカルト」だ、という「点」が「ここ」に「ある」(YOHROH 1991,p.232)。そして、「語」を「使用」する「頻度」にもよるが、「私 je/j'/me/m'/moi」が、「この点を」「補強しうる」のだ(MURAKAMI,K.1990,p.120)。何しろ「私」の「嫌い」なのが 「ルネ・デカルト」「である」(YAMAUCHI,S.1999/2000,p.168)。
だが、このことを「素描する」べく「これまでに」我々が「試み」たものは、あまり「明確」では「なかったのではないか」(SAWADA 1996,p.155)。こうした「疑問から発している」のが、「小論」である(ibid.)。
「心身関係」に限らず、「デカルト」の「論」を我々が「肯定するにせよ否定するにせよ」、「できるだけ」「理解する」こ とで「何よりも」「その内的構造」が「透明に」なる、ということが、「まず大切な」ことだと「思われる」(MATSUDA,K.1996,p.205)。
そこで、「難しい」ところにも「時間」を割きながら、付けてある「注釈を」細かく「読んで」いく(TANIGAWA 2002,p.51)ことにする。何しろ、「はるかに」「内容の」「多い」のは「注」の「ほう」なのだ(YOHROH 1991,p.230)。
まず、「AT版」における「段落」の「区切り」やら「文の区切り」やらに「依存」せずに、「六つ」の『省察』のみならずデカルトの著作を「さ らに分節化して、論述の構造を掴み取ろうとする」際に、もし「論述の構造をうまく捉え」ることができたならば、それは「穏当な」「読み方」ができている、 ということだ(MURAKAMI,K.1990,p.134)。「そのようにして精確に読もうと」「する」うちに、「そこで論じられていることを纏め」て は「一つの段落に」するという作業を、我々の「習い」にしていった、というだけのことだ(ibid.)。
「第六省察」に限らず、たとえ「不整合」な「テキスト」だとしても、我々が「認めざるを得ない」のは「事実」である (YAMADA,H.1996-a,p.171)。また、『省察』等の原典を「読み解く上で」「斥けることに」なる「解釈」は、「既に先入見にまでなって いる」という点で、「きわめて強力」だと考えられる(MURAKAMI,K.1990,p.iii)。
「皆さんの前にある」ことを「かたち」に「とって」「具体的」にしたものの「ひとつ」として、いったい「何」が「哲学 書」になるの「か」、「そもそも」「営み」が「どういう」風にして「哲学」になるの「か」(SAITOH,Y.2003,p.122)。
拙論は、「決して」「本」「といった類い」のもの「ではないが」、「すらすら読める」と云ってよい(SAITOH,Y.2003,p.122)はずだ。