OCHIAI 1953/67-b:落合 太郎「訳者註解」
(落合 太郎 訳『方法序説』所収、岩波文庫、1953初版、1967改版、pp.95-230)
MURAKAMI,K.1990:村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
MURAKAMI,K.1996-c:村上 勝三「まえがき」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996、pp.i-iv)TOKORO 1986/96:所 雄章「『省察』的用語の一考察 ―「praecise」について」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996、「第一部」pp.13-37、初出:『中央大学文学部紀要』(哲学) No.121、1986)cf. AT.:
OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
Fake the‘A’Brain.(part 2)
for The Mat Mirror.訳語
次に、「原典」において「使われている」或る「語」について、「そもそも」「意味」することが「どのよう」に「用いられ」る「べき」だったの か、ということを我々は「考え」ながら(TOKORO 1986/96,p.21)、「訳出の仕方を変更し、批判を加え」ていくうちに、我々の「読み」が先達の訳文と「異なる」という「結果」になった (MURAKAMI,K.1990,p.135)。「訳語について」は、我々が「ことさら註記して」「いない」し、また註記する「必要はないと」も「考え た」が、「やはり」先達の「訳文のものを遵守する」場合もあったし、その一方で、「いくつかに異なる語を当てた」場合もあった(ibid.)。このよう に、我々の「解釈」が「訳出上の差異」にまで「及ぶ場合」でも、「当然」「譲れぬところ」が我々には「ある」のだから、解釈であれ訳出であれ、我々のやり 方を「ほぼ全面的に用いる」(ibid.)ことにした。
我々が「注意深く吟味して」みて「判明する」ところでは、「たとえ」「異なる」「表現」だったにしても、そうした「表 現」の「類似している」ところまでも「俎上に乗せてきた」のは、我々だ(MURAKAMI,K.1990,p.47)。なるほど、「今日」での「語義」が 「生じ」、そしてそれに「限定され」たのは、「いわゆる」「学術」的な「語義」によってであるが、この学術的な語義に「転じ」た「原義」のほうは「日常 的」である(TOKORO 1986/96,p.23)。このように「見るとき」に「至った」のが「この語」である、ということを我々は付言しておく(ibid.)。したがって、 「この語」を「使用」すると、「時として」、「それらの語義が」「交錯する」のだ(ibid.)。「著者にあっても」、「語」が「多義に用いられる」とい うのが「自然」だ(OCHIAI 1953/67-b,p.216)。
鏡/直観
たとえば、「瞥見」したことを intuitus としたり、「鏡に」映る「姿」を intuitio としたりするのは、いわゆる「本来の語義だけで」云う場合であり、「著者」が「intuitus または intuitio と」呼ぶのは「直観である」(OCHIAI 1953/67-b,p.145)。
このように、「著者はつねに広義にも狭義にも、また双方あわせた意味にも使っている」(OCHIAI 1953/67-b,p.178)。
引用について
「引用に際しては」(MURAKAMI,K.1996-c,p.iii)、「これ」、といっても日本語訳の著作集ではなくて、AT版の「巻数および頁数」、そして行数「を添記し」て、「できるだけ」(ibid.)
Text Database René 「に準拠するようにつとめ」た(ibid.)。
Produced by K.-m. as the SHYNAMITES.初出:"What a cool believes"(blog),Oct.04,2006.