(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)
罠+檻(The One and Only)
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B-odd,[1119,1111,1103,1095,1087,1079,1071,1063,1055,1047,1039,1031,1023,1015,1007,
999,991,983,975,967,959,951,943,935,927,919,911,903,895,887,879,871,
863,855,847,839,831,823,815,807,799,791,783,775,767,759,751,743,735,
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183,175,167,159,151,143,135,127,119,111,103,95,87,79,71,63,55,47,39,31,23,15,7.]
「論理」でもって「分類」されたもの「すべて」「から発達」していることについて(1119:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、「私」に「ない」「所」を「択ぶ」べく「臨む」(1111:ibid.)際に、「必ずしも論理的」に「行くという」わけではないような「方向へ」(1103:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、「絶対的」なものを「即」座に「現実」「として」「限定」してしまうのが、「自己」である(1095:ibid.)。とくに「後者」は「文化」として「は」いわば「東洋」的であるが(1087:ibid.)、「問題」「そのもの」は、「疑」い「から出立するのである」(1079:ibid.)。
なるほど「文化」については、たとえば「日本」の「転換期に当って、何処までも」「大」きな「歴史の」なかで、我々が「この世界」「を学ぶのである」(1071:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。しかし、「方法」として「の哲学」は、むしろ「カント」な「のではなかろうか」(1063:NISHIDA,K. 1944/89,p.296-297)。「論」じられたことを「単に認識」するだけで「輓近に至って」いる「という感なきを得ない」(1055:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)。
なお我々は「哲学」「とともに、科学」「を材料とする」が(1047:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)、その際「論理的」な「主語」「が明」らか「にせられなかったのは」、我々において「相違」するのが「立場」だからなのである(1039:ibid.)。
さて「数学」「といえば」、「知識」として「十全なる」「デカルト以来」で「なければならない」(1031:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)。そしてとりわけ「有力」なの「は」、「我々」の「有するかぎり」の「知識」「なる」ものが「十全」に「基礎附けられる」ことである(1023:ibid.)。
いかにも、「それ自身」「に関係なく」(1015:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、「宗教的」なもの「において」でさえも、「根柢」から「成立」するの「は」、「その」「自己」だ(1007:ibid.)、と「我々に」云うの「は」、「スピノザ」「である」(999:ibid.)。
「理」(ことわり)が「即」ち「事」実に「なければならない」(991:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)のであって、たとえば「カウザ・スイ」、すなわち原因が自己にあることの「意義」「というのは、すべて」「の原因」が「スピノザ」にあるかどうかだ、「ということができる」(983:ibid.)。
こうして「意識的」「であり」つつ「時間」のかかる「方向」「へ」(975:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)、我々は赴くのだが、その「方向」でもって、「主語」「から徹底的に」なった「哲学」というの「は、デカルト」および「スピノザ」の哲学「であろう」(967:ibid.)。
「それ自身」「に於て」在り(959:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)、「身体なき」「自己は」、さすがに「彼」デカルト「に達しなかった」(951:ibid.)が、それにしても、或るときには、「炉辺に坐して」(943:ibid.)、「スピノザ」「として」「もの」が「理解せられる」こと「によって」(935:ibid.)、「自己自身」「が表現せられるものであり」(927:ibid.)、また或るときには、「直観的」に「行為」する「過程として」「表現」されるのが「自己」である(919:ibid.)。
ところで、「一」なること「と」「多」なること「とは」、「現在」では「絶対」に「私」において「存在するのである」(911:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)が、それでもやはり「世界」「の始」まりから「自己」「が成立する」(903:ibid.)。おそらく「一如」なる「外」と「内」と「である」(895:ibid.)ような、そういう「質料と」「形相と」「において」「形成」された「自己」が、「世界」のなかで「歴史」「に立つものであろう」(887:ibid.)。
「論理」の上では「精神」は「客観的」「たるを免れない」(879:NISHIDA,K. 1944/89,p.291-292)、という「立場へと」、「デカルト」を「再び」「私が」「考え直して見なければならない」(871:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)。さもないと、それこそ、「自己」「を」忘「るるなり」(863:ibid.)。こうして「迷」いつつも、みずから「執着するのが」「かかる自己」「に過ぎない」(855:ibid.)。
「自己」の「真」なることについて、「我々」が「論じた」ことは「多く」(847:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)有るが、決して既に「創造」された「歴史」「が」「一々」「実践」されるの「ではない」(839:ibid.)。また、「そこから」、すなわち自己の真なることから、「我々」の世「界」において「実在」するのは、決して「ヘーゲル」「ではない」(831:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。「主観」とは、せいぜい「それだけ」のこと「である」(823:ibid.)。しかし、「ヘーゲルにおいて」は、「私」とは「烏滸がましい」(おこがましい)ものだ、という「世界」「となった」(815:ibid.)ようである。
「為」されるのが「当」然のことを「道徳」「に」しているのは、「カント」「である」「と思う」(807:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。「既に」「自己は」、「という時」、「内から」、あるいは(799:NISHIDA,K. 1944/89,p.289-290)、「内在」するものが「即」、「超越」する(791:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)のであって、これこそが、「自己自身」「によって」在る(783:ibid.)、ということだ。
なお、少なくとも「哲学」が「実在」するということは、「論理」「によって理解せられる」(775:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)のであって、それ「以後」だからこそ、「カント」「など」を我々も「考えている」(767:ibid.)のである。
今は「哲学」における「カント」について「我々」は「考えている」が、そのこと「によって」(759:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)「人」々が「今日」「考えて見た」「立場」に、我々も「返って」みると(751:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、その「有つ」「意味」が「広い」、「というよりも」むしろ、「対象」を「認識」する際の(743:ibid.)、「論理」「的」な「場所」は、やはり「いわゆる」「私」という一人称「でなければならない」(735:ibid.)ようだ。
「これに反し」「私」が「把握した」のは、「真理」としては「同一的」でも「自己」にとっては「矛盾的」なることだ(727:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)。但し、「自己が」そのように云う「ならば」(719:ibid.)、あるいはそのように「考える」と、却って「出て来ない」、「という」こともある(711:ibid.)。「然らば」(711:ibid.)、「内在」することを「客観」化し(703:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「世界」「的」な「歴史」「も」、「学問」にし「なければならない」(695:ibid.)。
そして「それ」に、つまり自己「に返って考えて見なければならない」(687:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)となれば、「デカルト」をとおして「徹底的に」「深く」(679:ibid.)、そして「フィヒテ」「とともに」「批判せられなければならぬ」ような「哲学が」(671:ibid.)我々には既に有るのだから、「前者」「の」ような客観的な「方向へ」「外」と(663:ibid.)、すなわち「超越」する「方向へ」と、赴くにあたって、もし「主語的」な或る「実体」「によって」(655:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)、我々が今さら「不徹底」「に至って」しまうとなれば、それ「は」、もはや羞恥で「周知の如く」「である」(647:ibid.)。
なお、「フィヒテ」の(647:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)ように、「始」め「に」「論」じられたことを、「感覚」でもって「先」に経「験」すること「においては」、「哲学」をとおして(639:ibid.)、「限定」された「自己」「の判断」で「すべて」「なるものを包み」(631:ibid.)込むことになるだろう。
「カント」に「できる」「こと」を我々が「考える」、「と」(623:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)いう場合、おそらく「カント」にも「あった」はずだ、「と」我々の「考える」(615:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)ような、そんな「実在」「を見る」ような「自己」(607:ibid.)、という「こと」「に」我々は「陥る」(599:ibid.)だろう。そういえば「英国」だったか、「といっても、昔」のことだが(591:ibid.)、「主語」や守護「というものを」「自己」や事故「と」して「考えるのも」(583:ibid.)、「既に」主語や守護という「その事」において「考えるということ」そのものが「ある」、「と改むべきである」(575:ibid.)。これについては、我々のあいだでは、既に「疑う」ことに「なっていると思う」し、また、「疑う」だけでも、既に「思う」ということに「なっている」(567:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)はずだ。
「人は」「といえば」(559:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、「実在」すると「考えられる」「ことによって」(551:ibid.)、なるほど「形式」としては「同一」なる「自己」になるが、さらにそこから「矛盾」「なくして」(543:ibid.)こそ、「私」で「ある」(535:ibid.)、ということになる。
「私」「に」とって「如何」なる(527:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)「者」が「欺瞞」に「なる」のか(519:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、それはともかく、さすがに、実際に「物」「の」「すべて」(511:ibid.)をとおして、「神」「の観念が」「我々」に「ある」(503:ibid.)、「という」「こともできない」(495:ibid.)。
そこで「真に」「知識として」「十全なる」「もの」(487:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)を、「私」が「考える時」「に」、「論理的」に(479:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)、「存在」する「観念は」、あるいは「存在」という「観念」そのものは、「神」なる「者として」「完全」で「最高」「である」(471:ibid.)。
そしてまた、「最高」「ということの欠けた」ままだ(463:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)とはいえ、「確実」「に」「自分」「において」も「程度」が「同じ」「である」(455:ibid.)という、そんな「関係」「と」して「存在」するのが、「本質」だ(447:ibid.)。
「原因たる」ものが「神秘的」なのは、あくまで「自己に」とってのことであり(439:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)、「我々」「として」は、「かかる原因」で「働かねばならない」「ものが」、「創造的なる」(431:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)ものだ。
この「ことから」また云えることがある(423:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)。すなわち、「考える」という「原因」で(423:ibid.)、「実体」として「独立」している「自己」(415:ibid.)にとって、「完全」なのは「神」である(407:ibid.)。
そんな「実体」「の」「一つ」「において」(399:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)「自覚」していたことを「否定」する「時、彼」デカルトが「既に」「考えた」「もの」は、「基体的なる」まま「外に」(391:ibid.)おいて、「それ自身」「を限定するもの」(383:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)らしい。
「もの」を「考える」際「に徹底」され「なかった」その「方法」「と」「目的」とについて云えば、「遂に」「彼」デカルトの(375:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)「自覚」していたことを「否定」するのは、「絶対」的「でなければならない」(367:ibid.)、「詳しくいえば」(367:ibid.)、それは「新」た「なる」「世界」(359:ibid.)だ、ということになるだろう。ただ、「歴史的」には(359:ibid.)、「真」「ではない」はずの「世界」も、「実在」する(351:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)。
要するに「カント」は「私」からすれば「不徹底である」(343:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)。「哲学」をとおして「デカルト」「が」「これ」「を求めた」うえで「把握」したものこそが、「実在」する(335:ibid.)。
「ギリシア的」・「キリスト的」に「実在」するかぎり、残念ながら「哲学」は、いわば「中世」「なるものを出なかった」(327:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)。何しろ、「世界」において「もの」として「働く」のは、「それ」では「なかった」(319:ibid.)のである。「かかる立場」「において始ま」る(311:NISHIDA,K. 1944/89,p.278-279)ところの、あの、いわば「見る」「ものなくして」なお「見る」ような「立場」(303:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)も、「此」の「所以」「とならなければならない」(295:ibid.)。
おそらく、「哲学」「と異なった」「科学」が「そこに」はどうしても「なければならない」(287:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)だろう。しかし、「自己自身」「の対象は」、「哲学」「ではない」「もの」を「自」ずと「証」明「する」「と」云ったところで、そうした科学には「ならない」(279:ibid.)。
「分析」したものを「自覚」し、「自覚」しているものを「否定」するという(271:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)ことは、もちろん我々にとっては、「デカルト」を「分析」「することで」も「なければならない」(263:ibid.)。
「問題」は、たとえ「無限」であれ、必ず「解決」「を含」んで(255:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)いる。「実在」す「れば」す「るほど」「真」「として」(247:NISHIDA,K. 1944/89,p.276-277)いる「世界」というのは、「単なる自己」「から起」こ「るのでもなく」(239:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)、むしろ「疑問」の「無限なる」「所から」、「創造的」に「なる」の「であり」(231:ibid.)、我々としては「一度」「否定せられて」いた「過程」や仮定や家庭や課程「ということ」を、「単に」「直観」するのみだ「という」(223:ibid.)。
なるほど「終」わり「であり」また「始」まりでもあるような「点」「の」「一々」「において」「直観」する「であろう」(215:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)。「しかし」(215:ibid.)、「同一」なる「自己」にとっては、「矛盾」するほうが「原理」としては「最高」だ、という「哲学」も「ある」(207:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)にはある。となると、「既に」「行為という」もの「も」、「純粋」「でなければならない」(199:ibid.)。ところで、その原理と思しき「二つ」とは、「事と」「理と」である(191:ibid.)はずだが、そのどちらについても、「自覚」しているものを敢えて「否定」する(183:ibid.)ということ、我々の「主張する」のは「単にそれだけ」「である」(175:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)。
「困難な」「こと」を我々が「把握する」際には、「判明に」なったり「明晰に」なったりする「概念」を「根本」にして(167:NISHIDA,K.1944/89,p.274)、いわば我々の「注」ぐ「目」の「凡てに」「含まれたる」ところの、「深」き「注意」「に従って」いく(159:ibid.)が、これは「自覚」「による」「懐疑」「において用いた如く」(151:ibid.)に、おこなわれるのである。
たとえば「ものが」「働く」のを「知って」いる(143:NISHIDA,K.1944/89,p.273)、という場合、それは、「もの」が「働く」と、「自ら」「は」その「かぎり」で「考えられる」(135:ibid.)、ということだ。しかもその際、「もの」として「働く」とは「即ち自ら」「でなければならない」、という「もの」「を」も「含む」(127:ibid.)のである。
我々の「立っている」ところに、「為」すべき「当」然のこととして「主観」が「認識」する「といっても」(119:NISHIDA,K.1944/89,p.273)よいが、いずれにせよ、そうした様々な「対決」「の深刻なる」うちにも「実在」するのが「真」なのだ(111:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。
それは、ひょっとすると、「オントロギー」という「学」における「オントース・オン」が「それ」「である」(103:NISHIDA,K.1944/89,p.272)のかもしれないし、それこそ「知るということ」「なくして」「もの」を「知る」ようなもの「である」(95:ibid.)のかもしれないが、他方でまた、我々の「自覚」するが「如く」「試みた」のが「かつて」の「デカルト」だ、ということを我々が「考えれば考えるほど」「深く」「基礎」づけられる、「というのもある」の「ではないかと」、云われるの「かも知れない」(87:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。
「一」つの「もの」が「知られる」というのも、我々が「もの」を「知る」ことそのもの「において」(79:NISHIDA,K.1944/89,p.271)のことである。
「履歴」としての「自己は」「自覚的」「である」(71:NISHIDA,K.1944/89,p.271)が、その「自己」は「世界」「を表現するとともに」(63:ibid.)、「空間」や「時間」をとおして「ではあるが、単に」「事実」を「知るということ」(55:ibid.)もする。
但し、「対象」に「当」て「嵌めて」いる「形式」として、「空間」や「時間」「ということも」、「存在」する(47:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。
では、「自己」「に」とって「知ることのできない」ものとは、「対象」としては、いったい「何物か」(39:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。このことも、やはり「自己」「の意味において」云って「いるのである」(31:ibid.)が、「対象」として「認識」される「世界」が、一応は「考えられた」(23:ibid.)。なるほど自分が「人」「である」以上は、それは「空虚」な「形式」で、しかも「内容なき」もの(15:NISHIDA,K.1944/89,p.269)にすぎないのだろうが、「しかしまた」、「単に考えられた」だけ「というもの」でも「ない」(7:ibid.)はずだ。
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