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2008年11月7日

罠+檻(The One and Only)--C-even

NISHIDA,K.1944/89:西田 幾多郎「デカルト哲学について」
(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)

罠+檻(The One and Only)
[C-even]

C-even,[1118,1110,1102,1094,1086,1078,1070,1062,1054,1046,1038,1030,1022,1014,1006,
998,990,982,974,966,958,950,942,934,926,918,910,902,894,886,878,870,
862,854,846,838,830,822,814,806,798,790,782,774,766,758,750,742,734,
726,718,710,702,694,686,678,670,662,654,646,638,630,622,614,606,598,
590,582,574,566,558,550,542,534,526,518,510,502,494,486,478,470,462,
454,446,438,430,422,414,406,398,390,382,374,366,358,350,342,334,326,
318,310,302,294,286,278,270,262,254,246,238,230,222,214,206,198,190,
182,174,166,158,150,142,134,126,118,110,102,94,86,78,70,62,54,46,38,30,22,14,6.]


「論理」「はギリシヤ」において「従来」から在るのだ、「と」「考える」のが我々「でなければならない」(1118:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、というのであれば、もうそろそろ、我々も「戦」(いくさ)「なくして」「飛行機」「を有たなければならない」(1110:ibid.)のであって、これと同様に、「認識」された「対象」から「自覚」したことを「真」とするのが、「自己」である(1102:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。

なるほど「現在」「には絶対」とされる「精神」的な「文化」が、「日本」にもあるが(1094:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、そうした文化という「もの」の「行った」「方向へ」(1086:ibid.)、「矛盾」しているのが、もし「自己」であるならば(1078:ibid.)、そうした矛盾の「こと」「を忘れる」「自己」こそが(1070:ibid.)、「批判せられなければならぬ」のであって、この「立場そのものが、再び」「哲学」(1062:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)となる。

いわゆる「下婢」か何か「となった」はずの「科学」のほう「は」、「哲学」「以来」、却って「隆盛」し(1054:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)ているようだが、「科学」「を尊重し」て(1046:ibid.)きたところの、前述「の如き」「哲学においては」(1038:ibid.)、科学とは「相違」「の」ある「立場」で、「そこに」居「なければならない」(1030:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)。

もちろん「これ」「も」「愛」として「知的」なのであって(1022:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、その「対象」「とは」、たとえば「思想」として「十全なる」「スピノザ」「である」(1014:ibid.)。

「我々」「において」は「かかる立場」「を見るのである」(1006:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、といっても、せいぜい「十全」な「知識」(998:ibid.)という「もの」「を有った」「性質」「として、かかる」「もの」(990:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)を対象とするつもりだ。

一方で、ただ「同一である」というだけで「結合」されたり「秩序」づけられたりするのが「事物」であるからには、他方で、そうした事物を「結合」したり「秩序」づけたりするのは、「諸」々の「観念」「である」はずだ(982:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)。

こうして「過去」「から」「未来」「への方向において」(974:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)、「できる」「こと」「を与える」と「生命」が「新」た「なる」、という「哲学に」なるのは、「スピノザ」「である」(966:ibid.)。
但し、我々には、この哲学「それ自身」が「スピノザ」本人だ、「という」「こともできない」(958:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)。というのも、「自覚」されたことをただ「否定」するだけの「自己」は、「真」「そのものにまで向」か「わなかった」(950:ibid.)からである。

「デカルト」の「夜」(942:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)の話によれば、「それ自身」「によってあり」(934:ibid.)、「表現するもの」「は」、「それ」「を限定するものでなければならない」(926:ibid.)。「世界」における「自己が」「我々」として「そこに」「ある」「ので」「ある」(918:ibid.)。そしてまた「次の瞬間に」「神によって」「自己は」「我々」「として」「限定」される(910:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)という。

「世界」「から」「限定すること」は、「自身」「が事」物であり、またその事物にとっての「事」実でもあり、そこにおいては(902:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)、「実在」することが「為」されて「当」然だ、「即」ち(894:ibid.)、「立場」を「逆」にするという方「法」で「弁証」や弁償をする、という「理念」が(886:ibid.)ある。すなわち、「主語」とか守護とかを(878:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)、「哲学」でもって「従来」の「立場から」「自覚」し(870:ibid.)、その主語や守護に「自己」が倣ったり習ったりする「こと」が(862:ibid.)、「自己たる」ものとして「考えられた」、というのが「それ」「である」(854:ibid.)。「然らざれば」(854:ibid.)、「これについて」は、「私」「である」ことに「よる」「独断」(846:ibid.)があるという。

なるほど「自己」が「実践」するのは「真」だ、と「考えられる」(838:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)。「しかしそれは」(838:ibid.)、あくまで「原理」を「自覚」する「自己」が「行為」する(830:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)かぎりでのことであり、原理を自覚したうえで「もの」「に対立した」「自己」は、「意志的」だ(822:ibid.)。
こうして「世界」で「発展」したのは、幸いにも事故ではなく「自己」だ(814:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。

「開かれた」「世界が」「実在」するかぎり、「新」た「なる」ものとして「既に」「そこに」おいて(806:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「自覚」されたことがあるが、それ「は」、「人」「によって基礎附けられねばならない」(798:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。「超越」したものが「内在」することによって、「即」ち(790:ibid.)、「自己自身」「によって」、はじめて(782:ibid.)、基礎づけられるのである。このようにして「自己自身」「によって」在るということは(774:ibid.)、「神秘的」な「すべて」「のもの」「以上」(766:ibid.)であろう。

なお、「形式」「的」に「論理」「を考えるのも」また、「自己」である(758:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。たとえば「ヒュポケイメノン」を「アリストテレス」が「求めた時」の「立場」でもって(750:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)しても、「カント」「は」、「ヒュポケイメノン」には「ならないという」(742:ibid.)。

「論理」的な「者」が「一般」的に「含む」もの「として」の「外延」のこと「を」、たとえ「自己」「の」(734:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、「実体」にとっては「主語的」な「ものであるという」にせよ、必ずしもこのこと「が考えられる」(726:ibid.)とは限ら「ないという」ことも、「なければならない」(718:ibid.)。

「為」されて「当」然のことだ「から」「存在」する、というもの「がある」(710:NISHIDA,K. 1944/89,p.287-288)。が、これは、はたして「主観」の「外」では(702:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「問題」「と」「なるか」(694:ibid.)。
この「問題」を「デカルト」に即して「再び」(686:ibid.)我々が扱う。

「なお一度」(678:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「デカルト」「に返って」しまうと、その「立場」では、「自覚」されたことが「否定的」になり(670:ibid.)、「後者」「の」、つまり否定的になった「立場から」「自覚」するのが、「自己」だ(662:ibid.)。
このように「自己自身」「においては」、「哲学」としての「デカルト」「が出て来たと思う」(654:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)。これと「同様」にするべく、他の哲学「に代えても」、どうせ「対立」する(646:ibid.)だけだろう。「とにかく、カント」「に入らない」「議論」については(638:ibid.)、「主語」によって、「述語」「が、逆に」「基体」「とならない」(630:ibid.)ことを、我々は期待するしかない。

我々の「求めた」「根拠を」「実在」の「方向に」(622:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)「自覚」しつつ「否定的」たること「に対する」(614:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)や否や、その「否定」される「自己」については(606:ibid.)、残念ながら、「虚偽」の方「法」で「弁証」「的」に「超越」「を考えることが」(598:ibid.)、「論理」「として考えられるのである」(590:ibid.)。これは、「主観」「ということ」「に出立する」(582:ibid.)「事実」の「成立」するのが「自己」だ、「という代」わ「りに」(574:ibid.)、起こってしまうのである。しかし、たとえ事実の成り立つ自己というこの「前提」「が」、いわゆる「独断」であったにしても、「論理」「的」な「主語」「は此でも」「私」「という」ほか「にない」(566:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)。

なるほど「事実」として「証」明されるということには「直」ちには、そして「直」(じか)には「至らなかった」とはいえ(558:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、あくまで「否定する」「自己自身」「が」「論理」「的」にも「主語」「でなければならない」(550:ibid.)。「形式」として「実在」する「主語」だか守護だか(542:ibid.)は、どんなに「自己」が「欺かれる」「とも」(534:ibid.)、そして形式として実在する「者」がいかに「欺瞞」で「ある」(526:ibid.)にせよ、なかなか「偉大」なようで「ある」(518:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)。「しかし」(518:ibid.)、欺かれた自己が、たとえば「デカルト」「となった」(510:ibid.)ように、「コーギトーする」「様相として」(502:ibid.)、「理解せられる」「ことも」「ある」(494:ibid.)。

実際、「理解せられる」こと「によって」、「ものは、それ自身」「明晰にして判明なる」はず「である」(486:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)が、だからといって、理解されただけのものが「何処までも」「根柢」として「実在」「するというのではない」(478:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)。
要するに、我々が「基礎附ける」ことを「客観」化すれば、それは「知識」として「明晰判明なる」(470:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)とはいえ、それだけでは必ずしも「存在」する「ことはできぬ」(462:ibid.)。たとえば「確実」な「真理」は「数学的」だ(454:ibid.)、「先ず」そう「でなければならない」(446:ibid.)、といったところで、遅かれ早かれ「我々」「は」「神」によって「消されてしまわねばならない」(438:ibid.)。こうして「そこに」、すなわち数学的な真理に「求められない」のが、「原因」だ(430:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)。何せ、「観念」としての「神」は「自己に於て」在るのだ(422:ibid.)。

ひょっとすると「我々」「の如く」(414:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)、「客観」的な「知識」を「遂に」「彼」デカルト「まで」もが「考えた」の「かも知れない」(406:ibid.)、という、そんな「意味」の「如き」こと「を、デカルト」に(398:ibid.)我々が求めたところで、「コーギトー・エルゴー・スム」なんて、せいぜい"考えているのは私だから"と云っている「に過ぎない」(390:ibid.)。

「自己自身」「によって」在る(382:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)ような「私」が「勧めたい」ものを、誰かが「熟読」したうえで(374:ibid.)、「自覚」していたことを「懐疑」するにあたって、その読者が「何処までも徹底せる」のは、「その方法」である(366:ibid.)。

「今日」「を無視する」者による「規範」は、はたして「道徳的」なのかどうかはともかく(358:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)、「真」なるもの「を限定する」「自己自身」「によって」在る(350:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)、という点では、「何処までも」「関係」している(342:ibid.)が、そのようにして「新」た「に返って」いる「根柢」が、「自己自身」にとってどれほど「深く」とも(334:ibid.)、だからといって「ギリシヤ的」な「考え方」が「実在」「したのではない」(326:ibid.)。
いずれにせよ「自覚というものは」「個人的」には「真」である(318:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)から、「かかる立場」の「哲学は」、いわば「古来」の「私」「に過ぎない」(310:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)「哲学」として、「繰」り「返さなければならない」(302:ibid.)だろう。

「根柢」では「科学」においても「哲学が」「なければならない」(294:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)。が、そうした「学」として「自」ずと「証」明される際、「学」「の対象」たる(286:ibid.)ものは、たいてい「述語」どころか術語や術後「となって」いるにも拘わらず、決して「主語」でも守護「でもない」ような「もの」「によってある」(278:NISHIDA,K. 1944/89,p.277-278)。それらは「何処までも」「過程」やら家庭やら課程やら仮定やら「として」「表現」されるがままの、「自己」として「実在」する(270:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)。
そこで「否定」さるべきなのは「独断」や「先入見」だが、そうした独断や先入見がいかに「因襲的」か、「自己」や「我々」「の立場から」「直観」すると(262:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)、どうやらここで「解決」されるべきなの「は無限の」「問題」「でもない」(254:ibid.)ようだ。
このように「限定」された「自己」が「実在」するのは「真」である(246:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)。

なるほど「世界」における「物」についての「単なる」「知識は」「我々」「に」有り、「とも考えられる」(238:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)が、やはり、我々にとっていわば「終」わり「であり」また「始」まりでもあるような「点」「の」「一々」「において」、我々がその「過程」や仮定や家庭や課程を「直観」すること「に」、そうした知識も「基」づ「くのである」(230:ibid.)。

ところで、そんな「過程」を「無限」に「映す」と、「自己」「の中に」「自己」として「実在」するものが「ある」(222:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)、などと云い「得る」こと「においても、あるいは」このように(214:ibid.)、我々みずから「把握する」「原理を」「根本」「において」も、「知識」としての(206:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、「事実というもの」を「純粋」に「限定する」のは、やはり、その「事」実「自身」だ(198:ibid.)。

したがって、「既に」「理解せられるといっても」、「それ自身によって」いるが「如く」であり(190:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、その「方法を」「哲学」にするの「は」、「私」「でなければならない」(182:ibid.)。
そこで「理解せられる」のは、次のこと「のみ」だ(174:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)。すなわち、「最」も「始」め「においては」、「問題」は「形而上学」として「受」け「入れられるが」、「何人にも」(なんぴとにも)その問題「は」「一致する」(166:ibid.)、というのが「それ」「である」(158:ibid.)。

『省察録』での「デカルト」にとって「は」、「かつて」は、「それ」だ「と思う」(150:NISHIDA,K.1944/89,p.274)うちに、「即ち」「働く」うちに「表現」されるのが「自己」である(142:NISHIDA,K.1944/89,p.273)ようだった。
そうした「もの」は、なるほど「基底的」でも規定的でも「ではない」が、とはいえ「何らかの意味において」「もの」「によって」「働く」「自己自身」は、「真」(134:NISHIDA,K.1944/89,p.273)であろう。何しろ、その真なる自己自身の「多」くは、「無限」「にして」「一」「でなければならない」「もの」「を含む」(126:ibid.)のだ。このように「客観」的な「知識」「というのではないが」、「主義」としての(118:ibid.)「知識」というのが、「それ」「である」(110:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。

なるほど、我々が「もの」として「考える」「と」、「学」において「実在」するのが「真」になる(102:NISHIDA,K.1944/89,p.272)とはいえ、その学から「除去せられている」こと「そのもの」を我々は「既に」「知る者」「で」も「ある」(94:ibid.)、という場合、「それら」として「存在」するのがもし、「単なる物」であれば(86:ibid.)、その一方で、「自覚」「ということであり」、「知る」「ということ」「である」(78:NISHIDA,K.1944/89,p.271)、と「考えられる」の「が」、「自己というもの」だ(70:ibid.)。

「世界」は「自己」「によって考えられなければならない」(62:NISHIDA,K.1944/89,p.271)が、単なる「形式ではない」ものとして「存在」するのが「自己」であり(54:ibid.)、そうした「自己そのもの」「から出立する人」「の立場」で「認識」するのが「対象」「であろう」(46:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。ところで、「不可知的というもの」「を」「自己」とするの「か」(38:ibid.)。「かかる意味において」は、「認識」されるのが「対象」だ、「ということを」、「知る」のが「人」だ「という」(30:ibid.)。

こうして、「自己によって」「何処までも」「考えられる世界」が「成立する」(22:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。
「此にも」「定まるのではない」のが「形式的」だ(14:NISHIDA,K.1944/89,p.269)、「という如きこと」が、もしあるとすれば、それはあの「実在」しているものから「離れた」まま「実践」する、「と」我々が「考える」「点」に「出立」する(6:ibid.)だろう。

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