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2008年11月4日

罠+檻(The One and Only)--A-even

NISHIDA,K.1944/89:西田 幾多郎「デカルト哲学について」
(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)


罠+檻(The One and Only)
[A-even]
A-even,[1120,1112,1104,1096,1088,1080,1072,1064,1056,1048,1040,1032,1024,1016,1008,1000,
992,984,976,968,960,952,944,936,928,920,912,904,896,888,880,872,864,856,848,
840,832,824,816,808,800,792,784,776,768,760,752,744,736,728,720,712,704,696,
688,680,672,664,656,648,640,632,624,616,608,600,592,584,576,568,560,552,544,
536,528,520,512,504,496,488,480,472,464,456,448,440,432,424,416,408,400,392,
384,376,368,360,352,344,336,328,320,312,304,296,288,280,272,264,256,248,240,
232,224,216,208,200,192,184,176,168,160,152,144,136,128,120,112,104,96,88,80,
72,64,56,48,40,32,24,16,8,0.]


そもそも、「基となっていた」のは、「形式」「ではなかろうか」(1120:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)。

まず、「論理」「の根柢に」おける「文化」が、たとえば「東洋」にあるとなれば(1112:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、「民族」として「西洋」なのかどうか、については、「そこに」おいては「必然的ではない」(1104:NISHIDA,K. 1944/89,p.297-298)。
また、ただ「ものが」在るというだけでは、「同一的なる」「自己」においても、まだ「矛盾」する(1096:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、という場合もある。
が、「我々」には「今や」「できる」「こと」「を有つという」「長所」や調書があるのであって、だからこそ、「その」「方向に」(1088:ibid.)向かって、「自己」「は我々」および「私」「となるのである」(1080:ibid.)。

そんな「我々の」「掘り下げて」いる「根柢」(1072:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)について云えば、そのように掘り下げることは、「方法」としては「哲学」だ、ということで(1064:ibid.)あるが、こうして「哲学」と「なった」「主義」が、「更に実用」「的となり」(1056:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)、ゆくゆくは、「ガリレイをば」「基礎附けなければならない」(1048:ibid.)、ということになるかもしれない。
それというのも、「転回」なり展開なりした「立場」が「論理的」になって「そこに」「ある」、「と」我々が「思う」「故」「であった」(1040:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)。

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さて、「スピノザ」で「以」って「説明さられる」「例を」、我々が「知識」とするのは(1032:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、「幸福」「である」(1024:ibid.)。
「即ち」「真なるもの」「において考えられるかぎり」(1016:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、「此に」「は」、まず「知識」としての「哲学」がある(1008:ibid.)。
さらに、「人間」に「神」が在る「ということは」、「思想」もまた、「十全にして完全なる」(1000:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)ものとなり、「事」実が「即」ち「理」(ことわり)となる(992:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)。

こうして「考うべき」「もの」「を」我々が「有った」からには(984:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)、一方で「意識」「として」「思惟するもの」(res cogitans)が「一面に」「あり」、他方で「空間」「として」「延長せるもの」(res extensa)が「一面に」あるような、そういうところに「神」が在る(976:ibid.)のであって、「我々」は「そこに」「向」かっ「た」(968:ibid.)次第である。
なお、それが「神」として「理解せられる」こと「によって」(960:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)、また、「自己」が「抽象的」であればこそ(952:ibid.)、「現実」として「歴史」において、「考え始めた」のが、「彼」デカルトだ(944:ibid.)。

「神に於て」在る「ものは」、いかにも「すべて」「の如く」(936:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)在る「ものとして」「表現する」(928:ibid.)。そういう、いわば「媒介」「なる神」を、我々は「超越的」「に見るのである」(920:ibid.)。だからこそ、たとえ「形式」「的」には「同一」でも、「自己」において「矛盾」するのが「絶対」的なのだ(912:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)。

そんな「自己」「の始」まり「が」、また「世界」「の始」まり「で」もある(904:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)。たとえば「デカルト」「である」(896:ibid.)という点で「同一」なるはずの「自己」においては、「矛盾」として「相反するとともに」、「何処までも」(888:ibid.)「世界」において「実践」されたものがあり、それが「歴史」になるの「であって」(880:ibid.)、これは、「デカルト」が、「論理」「において」は「かかる立場」だ、「と主張する所以である」(872:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)。

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「万」(よろず)にわたる「法」則「を」忘「るるというは」(864:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)、「立場」にもよるとはいえもっぱら「自己」の「判断」だけで「肯定」された、「ということ」であるが、そうした態度が「即」座に「否定」されるのは「絶対」的「である」(856:ibid.)。
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「自己」が「実践」すると「歴史」になる(848:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)、ということからすると、「一々の」「自己は」、「我々」「でなければならない」(840:ibid.)。
なるほど「世界」から、あるいは世界に、「生」ま「れる」のが「自己」であり(832:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「自己」の「意志」は、「我々」「に」とって「真」「である」(824:ibid.)。しかし、そこにおいて「到らなかった」「立場」を「自覚」しつつ「否定」するのが「絶対」的だ(816:ibid.)。
「フィヒテ」「の世界は」、自「我」が「実践」する「として」(808:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「カント」の「外に出ているのである」(800:ibid.)。

「原理」としては「同一」のことなのに「自己」において「矛盾」する、というのは「絶対」的なのであり(792:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)、また「原理」「的」には、「哲学」において「実在」するものこそが、「真」たること「を限定する」のである(784:ibid.)。
「デカルト」が「そこに」「あった」(776:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)といわれる「立場」は、なるほど「自己」「的」には「主観」だが(768:ibid.)、その「立場」で「自覚」すること「を否定して」も、どうせ「新」た「なる」「独断」的なもの(760:ibid.)になるだけだろう。
「我々」が「論理」を「考える如く」(752:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、「その私」「という時」こそ、《「考える」のは「私」だ》、「ということができる」(744:ibid.)。

「最初からかかる」「論理」でもって我々が「認識」するにあたって、その「対象」は、たとえば「カント」である(736:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)が、では、「新」たに「そこから」(728:ibid.)、「デカルト」に「なければならない」(720:ibid.)もののうちで、我々が「考える」べき「ものは」、いったい「何物であるか」(712:ibid.)。
「対立」「という如き」ものを我々が「超越」して(704:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)いくなかで、たとえば「カント」「の所産である」(696:ibid.)ものを、それこそ「カントの如くに」(688:ibid.)、すなわち、かつて「自覚」してきたことに対して「否定的」な(680:ibid.)、「否」、それどころか「カント」「も批判せられなければならない」ような、そういう「哲学」は(672:ibid.)、「形而上学的」と、「同じく」云う「こと」も「できる」(664:ibid.)だろう。

さて、その「方向へ」、「内」なるものについては(664:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「フィヒテ」「によって考えられたが」(656:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)、「実体化」した「主観」から「認識」されるの「を除去す」べきだというのは、「矛盾」である(648:ibid.)。
「外」なる「自己」においては、「我々の」云って「いる如き」(640:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)、「主体」「的」なものを、「述語」「として成立せしめる」(632:ibid.)ものがあって、「それ」について「は、デカルト」が「自己」として「自覚」しているのである(624:ibid.)。

「果」た「して」「哲学は」(616:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)、「かかる」「根拠」でもって(608:ibid.)、「論理」「的」な「主語」「は」「それ」「である」(600:ibid.)、と示し得るだろうか。
「学者の」云った「ように」、「心理」的にも(592:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)、「その作用」「を」、我々が「思惟」として「考えて」みると(584:ibid.)、やはり「事実」とは「そういう」ものだ(576:ibid.)。
すなわち、「事実というのは」、「証」明されさえすれば、我々が「直」に「疑うこと」など「できない」(568:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)。「内的」に「それ」を「直」ちに(560:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、「立場」として「自覚」するの「は」、やはり「デカルト」「でなければならない」だろう(552:ibid.)。
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「自己は」「スム・コギタンス」「でなければならない」(544:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)。
「疑う」ことで「存在」しているのは「私」だ(536:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、となれば、どんなに「私」「を欺くとも」(528:ibid.)、「私」が「常に」「あって」(520:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、また、どんなに「世界」をも、「物体」を「も」、「精神」を「も」、「地」を「も」、「天」を「も」、「疑った」にしても(512:ibid.)、それもあくまで「我々」「に於て」在る「かぎり」で(504:ibid.)のことである。

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そんな「デカルト」「哲学は」、「スピノザ」「に至って極まるのである」(496:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)。

「もの」「を表現する」こと「それ自身」において「は」、どうしても「神」「でなければならない」「もの」が「ある」(488:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)。そして、そこに「出て来る」「理由も」、すなわち、「存在する」「者」として「は」「完全」にして「最高」だからだ、という(480:NISHIDA,K. 1944/89,p.282-283)ことである。

たとえば筆者の全財産が「百円」以下のときにも「証明」されるの「は」、「存在」するのが「神」だ、「という」ことであるが、このこと「を含む」(472:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)だけでなく、また、神はそのように存在する「者」として「完全」だ、ということも(464:ibid.)、含み、その他、「二直角」「が」「三つの角の和」となるのは「三角形」「である」(456:ibid.)、ということをも含むような、そういう哲学である。
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「再び」「第五省察」「において」「デカルト」「が究明せられねばならない」(448:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)。

「哲学」としての「デカルト」「を」我々が「免れない」というのは、「一体」(440:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)どういうことなのだろうか。
我々が「認めねばならない」のは「存在」するのが「神」だ、ということであり(432:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)、この点において、「我々」は「一つ」である(424:ibid.)。そしてまた、「矛盾」「の間に」さえも「存在」するのは「神」である、「と」我々が「考える時」(416:ibid.)、「誠実」なのは「神」である(408:ibid.)。

そこ「において」我々がさらに「考えるならば」(400:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)、たとえば「分析」したことを「自覚」するという「途を踏み外した」(392:ibid.)という場合、それは、あくまでそのように踏み外した、「それ自身」「に於て」のことなので「あり」(384:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)、どうやらこのことは、「論理」「的」に「はアリストテレス」として、「彼」デカルトのなかには「ある」らしい(376:ibid.)。

とはいえ、「分析」したことを「自覚」して(368:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)、「新」た「なる」「点」から「出立」する「哲学」に(360:ibid.)依ったところで、必ずしも「最初」「ではない」ような「世界」において「実在」する(352:NISHIDA,K. 1944/89,p.279-280)ことになる。
「具体的」な(352:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)、「科学」に対して「純粋」「に至って」いくなかで、あの「哲学」をとおした(344:ibid.)「世界は」、相変わらず「デカルト」にとって「の課題であった」(336:ibid.)。何しろ「科学」が「近世」で「行」き「詰まって」いる時点で、「世界」はなかなか「中世的」「であったということができる」(328:ibid.)。もし「世界」において「実在」するにも拘わらず、「ロゴス的」「ではなかった」(320:ibid.)、というのであれば、それは「今日」「において」も(312:ibid.)、おそらく、「考える」「ものなくして」なお「考える」「立場」(304:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)になるだろう。

しかし、「直観」して「行為」するという、その「方法は」、あくまで「科学」「の故に」「ある」(296:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)。
そして、「理由」が「存在」すること「そのもの」は(288:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)、「対象」「なき」「対象」、すなわち、他に対象をもたずにみずから対象になる、という「もの」「を」、「自」ずと「証」明「する」(280:ibid.)であろう。すなわち、「実在」するものの「根拠」として「実在」するのであれば、「すべて」が「それ」「でなければならない」(272:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)だろう。

したがって、もし何かを「否定」し「なければならない」のならば、その「意味」するところを「分析」すべし(264:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)。何せ、「世界」における「歴史」「がかつて」の「私」「を含んでいるのである」(256:ibid.)。とはいえ、その一方で、「個なればなるほど」「即ち真」なる(248:ibid.)こともある。となると、たとえば、「語」の「慣用」は、必ずしも「従来」「から起」こ「る」という「のでもない」(240:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)だろう。
実際に、「単なる形式」「から」は「何物も出て来ない」、というよりむしろ、「単なる否定」「が起」こ「るのである」(232:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)。そして、ひとたび「それ」「ではない」「ということ」「が見られる」と、このことが「真理」となるにあたって、その「最終」「的」な(224:ibid.)、「過程」において「創造」される、というのが、「それ」「である」(216:ibid.)。
いずれにせよ、「立場」を「論理」化する際の「形式」は、「単」なる「知識」「たらざるを得ない」(208:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。

なお、「実在」するのが「二次的である」(200:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)ような場合についても、述べておくことにする。

もちろん、ただ「存在」するだけで「本質」「になる」(192:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)ようなものについては、あくまで「分析」されたものを我々は「自覚」する(184:ibid.)だけだ。
なるほど「否定する」のが「容易」な「人」は、たとえ自分の「好きな」ことであれ、「何事にも反対」する(176:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)。しかし、それ「ならば」(176:ibid.)、そうした否定や反対「からは」、おそらく「性質」として「本来」的「である」(168:ibid.)ようなものが、出てくるはずであり、もし、そうした本来の性質を「完全に」「見出した」のが、「あたかも」「自分」であるかの「如く」になる「ならば」(160:ibid.)、それこそ、「meditari」「である」(152:ibid.)。

すなわち、「否定」されつつあるのが「無限」であっても、その「中に」おける「自己自身」は「真」だ(144:NISHIDA,K.1944/89,p.273)。
「他に」よって「否定」されるのは、決して「自己」そのもの「ではない」(136:NISHIDA,K.1944/89,p.273)のであり、また、「自己自身」と「は」そう「でなければならない」(128:ibid.)。「然らざれば」(128:ibid.)、あたかも「排斥せられてしまった」かのようなもの「として」「形而上学」「を論ずるもの」の「実在」するのが、「真」「である」(120:ibid.)、ということになってしまう。が、その場合には、むしろ「問題」として「実在」しているほうが、「真」「である」(112:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。

いかにも、「本質が」「哲学」をとおして「そこに」「ある」(104:NISHIDA,K.1944/89,p.272)かぎり、どんなに「問題」「がある」とはいえ、「深い矛盾」は「此に」は「考えられない」(96:ibid.)。但し、「如何にして」も「問題は」「哲学」「から」生じるの「でなければならない」(88:ibid.)だろう。

在る「ということ」を「知る」、「ということであり」、また「知る」「ということ」として在る「のである」(80:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。そして、「自己」「というものも」、「形式」としては「空間」や「時間」「を有ったものでなければならない」(72:ibid.)のであって、「かかる」ことが「立脚点」の「一」つとして、「表現」された(64:ibid.)。
いかにも、「知る」こと「としては」、「事実」だ(56:NISHIDA,K.1944/89,p.271)といっても、「我々」「としては」、やはり「自己」を「心理的」「に考える」(48:NISHIDA,K.1944/89,p.270)こともある。そうすると、「一方」では、既に「知れたもの」が「自己に」とっては「最も能く」(40:ibid.)、他方では、いつまで経っても「知ることのできない」のが「自己」である(32:ibid.)。

しかも、「為」されて「当」然のこととして「実践」されているところ「から」「世界」が「実在」するといっても、それは「かかる」実践の「対象」としての世「界たるに過ぎない」(24:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。「もし」そうならば、もちろん、「不可知的」とはいえ、「在」るのは「真実」だ(16:NISHIDA,K.1944/89,p.269)。しかし、我々が「実践」したからといって、べつに我々が「真」に「実在」するわけ「ではない」(8:ibid.)。

「哲学について」、「デカルト」(0:NISHIDA,K.1944/89,p.269)および我々が扱ったのは、以上である。

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