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2008年11月14日

罠+檻(The One and Only)--F-odd

NISHIDA,K.1944/89:西田 幾多郎「デカルト哲学について」
(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)


罠+檻(The One and Only)
[F-odd]

F-odd,[1115,1107,1099,1091,1083,1075,1067,1059,1051,1043,1035,1027,1019,1011,1003,
995,987,979,971,963,955,947,939,931,923,915,907,899,891,883,875,867,859,
851,843,835,827,819,811,803,795,787,779,771,763,755,747,739,731,723,715,
707,699,691,683,675,667,659,651,643,635,627,619,611,603,595,587,579,571,
563,555,547,539,531,523,515,507,499,491,483,475,467,459,451,443,435,427,
419,411,403,395,387,379,371,363,355,347,339,331,323,315,307,299,291,283,
275,267,259,251,243,235,227,219,211,203,195,187,179,171,163,155,147,139,
131,123,115,107,99,91,83,75,67,59,51,43,35,27,19,11,3.]

「私」の「如く」我々が「触れた」こと「に」ついて(1115:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)云えば、「論理」「それ自身」は、「文化においては」「東洋」「に向」かった(1107:ibid.)。
そこで、もし「体験的」になった「文化を単に」「東洋」「という」(1099:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)のであれば、我々は「そこに」「思う」ところ「から出立せねばならぬ」(1091:ibid.)。

さて、その「方向」を「肯定」する「自己」が「一つ」在る(1083:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。それこそ、「問題」「が」「認識」されるが如く、また「省察」されるが「如く」と「もいう」(1075:ibid.)が、とにかく「分析」されたことを、その自己が「自覚」するにあたっては(1067:ibid.)、さすがに「方法」「と」「問題」とまでも「なお一度デカルト」として、自覚する、「というのではない」(1059:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)。方法と問題という「両者」「は」、そのような自覚のなか「にあったともいわれる」(1051:ibid.)。

ところで、これも「学者」「の一派」「ではあるが」(1043:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)、少なくとも「主義」のうえでは、「知」を「主」としているかぎり、「数学」「も」「哲学」も、「スピノザ」において「ならば」、「考えられる」(1035:ibid.)。
なるほど「知識」において「不十全なる」「精神は」「我々」「について」のことであって「も」、そうした事「物」の「外」には、たとえば「スピノザ」が居「なければならない」(1027:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)。

そんな「一」なる「ものと」して「考えられる」(1019:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)。「自己自身」が、「対象である」(1011:ibid.)。
「我々は」「そこに」「あるということにほかならない」、「と」(1003:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、「直観」「的」に「自覚」されたこと「を見る」(995:ibid.)際の、あの「自己の」、「現在」における「絶対」「をいうのである」(987:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)。

さて、「自己自身」「として」「限定」するべく(979:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)、「映すもの」「から」「何処までも映されたもの」「として」限定するのは、「現在」では「絶対」に「神」「である」、「となった」(971:ibid.)し、また、「それ」「でなければならない」(963:NISHIDA,K. 1944/89,p.293-294)だろう。

「神」「に於て」在り(955:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)、「存在」するはずの「自己」を敢えて「疑った」(947:ibid.)ところ、自分に「できる」はずの「ことが」なぜか「できないという」「ことも」(939:ibid.)、起こった。

「自己自身」「を証明するもの」(931:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)が、いったい何なのか、これについては、みずから「説明する」べき「ものを以」っ「て」しても、まだ「分」か「らない」ので、「更に」(923:ibid.)、「客観」的な「知識」「から、逆に我々」としては、「欺かないということ」を「神」が「含むと」成し(915:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)たところ、みずからと知識からという、「両」方の「契機」が「世界」において「歴史」「を形成する」(907:ibid.)ことになった。

「表現」された「自己」「が全」体「を表現すること」は、(899:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)、いわば「形自身が」「形」づくる(891:ibid.)ようなものであり、そのように「根源」から「発生」したことをみずから「意識」して(883:ibid.)いるのだから、その、「論理は」「ヘーゲル」「とも異なったものでなければならない」(875:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)。

「今や我々」「を把握する」「自己」は「真」なる「所に」(867:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)あるのであって、その「自己」から「歴史」が「作られる」(859:ibid.)だろう。なるほど、「作られて」いる「行動である」とはいえ「歴史的」になる(851:ibid.)。そこで、「決断」して「実践」するのは「我々」「である」(843:ibid.)。

もし「自己」から「意志」「は出て来ないであろう」(835:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、というのであれば、「我々」「は」決してそんな意志なき自己「ではない」(827:ibid.)はずだ。

「自己」の「意志」によって(819:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「スピノザ」「として」、そしてまた、「一旦」(811:ibid.)「フィヒテ」をとおして、我々「は」、「自我」を「純粋」に「主観として」「認識」すること「ができる」(803:ibid.)。
なお、「自覚」して「から」「考えても」(795:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)、充分に「徹底的に」(787:ibid.)なる。「原理と」「論理と」が「実在」すると、「そこに新」た「なる」(779:ibid.)立場が生じるが、これも、「ヘーゲル」「に反して」いる「立場」なのであって、そこ「から出立した」「という」の「が自己」(Ich)「である」(771:ibid.)。

のみならず、「反省」するのも「自己」だ(763:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。もし「そこから」の「関係も」やはり「相互」に「対立」する(755:ibid.)場合、なるほど「未定的」「というのは」なかなか「広い」が(747:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、「無論」、「論理」的に「アリストテレス」同然な「のはいうまでもない」(739:ibid.)。

さて、このように「論理」「的」には「アリストテレス」同然だ、と「彼」デカルト「は」「考える」(731:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)が、その際にも「存在」するのが「自己」である(723:ibid.)。
「その前に」(723:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、わざわざ「斯くいう」「こともない」(715:ibid.)だろうが、いわば「外」「から」「内」に赴くようなもの「である」(707:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)という、そういう「世界」としての「科学」も(699:ibid.)、やはり結局は「自己自身」「によって」在るのだ(691:ibid.)。

「従来」「の如」き「時代」に居た「デカルト」のことが、「あたかも」「今日」のこと「である」かのように、我々が「主張する」のも、この「所以」だろう(683:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)。

「根柢に」おける「その」「立場」で「哲学」を「批判」し(675:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)ながらも、なお且つあの、「両方向」に「相反する」他の「哲学と」(667:ibid.)、「同様」に、「徹底化」する「方向」「へ」と(659:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)、「自我」を「超越」するのが「フィヒテ」だが、フィヒテ「が」そう「なった」(651:ibid.)のも、「考え方」としては「論理」「的」な「主語」が「そこに」在り(643:ibid.)、「学派」では「カント」について「色々の」(635:ibid.)、「表象」「のすべて」を「私」が「考えるということ」(627:ibid.)になり、その「主語」「は」(619:ibid.)、それこそ「哲学」における「カント」「は」(611:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)、「綜合」的な「主観」として「いわゆる認識」「が変ぜられねばならない」(603:ibid.)、とでも云わんばかりの「独断」として、「実在」していた(595:ibid.)からであろう。
となると、「矛盾的」「とは」、おそらく「自己」「である」(587:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)はずだ。

「外」的な「知識」「の如く」(579:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)に「結果」「があると考えるのは」、「推論」をとおして(571:NISHIDA,K. 1944/89,p.284-285)、「我々」の「考える」「こと」「から出立する」(563:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)故である。「真」の「意味において」(555:ibid.)、「否定」されるといっても、「単」に(547:ibid.)、「かかる」こと「を証明している」(539:ibid.)にすぎない。

「哲学」「からデカルト」は「そこ」「に達したのである」(531:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)。といっても、それがいかなる「如きもの」であれ、もしや(523:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)それさえ「もないので」は「ないか」(515:ibid.)。また、それ「を失った」とき、「もっとも具体的」「たる性質」として(507:ibid.)、「我々」「に至って」しまっても、我々には「全然」(499:ibid.)為す術もないだろう。

「スピノザ」の「哲学は」、「デカルト」「から出立した」かぎりでは、「要するにコーギトー・エルゴー・スム」「である」(491:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、というが「如き」こと「を」我々が「基礎附ける」にしても(483:ibid.)、また我々から「排斥すべき」「一言」「を以」って(475:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)しても、いずれにせよ、「完全」に「存在する」の「は」「神」「である」(467:ibid.)。それ「故に」(467:ibid.)我々は、「神の」「如くに」「できない」(459:ibid.)。我々としてできるのは、せいぜい「論」じられたことを「認識」する(451:ibid.)ことくらいであろうか。

「カウザ・スイという」、すなわち原因が自己にあるかどうか、という点で、「もの」を「スピノザ」「によって限定する」(443:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)と、やはり「神のみ」が「実在」するので「ある」(435:ibid.)。「観念」として「の」「神」の「無限なる」こと、そして、その「内に」おける「自己」の「有限なる」こと(427:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)、「これ」ら「を論じた」(419:ibid.)のが、スピノザだが、「時代性」から云っても(411:ibid.)、「これ」は「明」らか「に」「デカルト」を「も」「免れない」(403:ibid.)。

「スム・コギタンス」として、すなわち、思惟しているのは私である「として」、あたかも「命題」「の」「一つ」の「如」き(395:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)「もの」を「自覚する」(387:ibid.)や否や、「カント」の「陥った」「形而上学」が「独断的」になる(379:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)。「デカルト」における「かかる意味」は、ほかならぬ「私」「から出て来るのである」(371:ibid.)。

「自己自身」「の問題は」「哲学」として「考えて見なければならない」(363:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)。「近代」において「哲学」で「実践」したのは「カント」「だけである」(355:ibid.)。「自覚」している「自己」について「は科学的」にも「哲学」的にも(347:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)、「ライプニッツ」「から」「デカルト」までの「哲学に」(339:ibid.)あるだろう。

我々が「中世に」「求めた」「点」から「出立」している「哲学」「に返って」みて、「新」た「なる」(331:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)「哲学」を、「中世」においても「考え得る」ものとして我々が「把握した」ところ、なるほどそうした新しい哲学は「実在」するとはいえ(323:ibid.)、あくまでそれ「を限定する」「自己自身」「において」、哲学は新たに「始ま」る(315:ibid.)のである。

「真」なるもの「を限定する」「自己自身」「によって」もなお(307:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)、仮定や家庭や課程や「過程というのは」「無限」に在るのかもしれない、と「直観」して「行為」する「私」「である」(299:ibid.)。
前に云った「如く」(299:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)「世界」を「限定する」ことそれ「自身」が「形」となる(291:ibid.)。但し、「客観」的な「何ら」かのこと「を離れるかぎり」、どんなにみずから「経験」「たる」ものとして「直観」して「行為」しようとも、「推論」でもって「単」なる経験「に堕するのである」(283:ibid.)。

「而して」(283:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)「基体的」「なるもの」として期待されているもの、「否」、「対象」「においても」「何ら」か「の意味」が「そこには」「なければならない」(275:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)。
その「立場」で「直観」して「行為」するにあたって、「先ず」「成立」するのが「知識」だ(267:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)。
我々の「自覚」していることを敢えて「懐疑」したり、我々の「分析」したものを敢えて「否定」したりして、「探求」されるのは「真理」だ(259:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)。このようにして、「論者のいう如く」「相対」的に「真理は」「出て来るのである」(251:ibid.)。そのなかで、「自己自身によって」「自己が」、「我々」のほう「から起」こ「るのである」(243:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)。といっても、べつに「自己が」「我々」にとって「問題」「となるのではない」(235:ibid.)。また、たとえ「過程」なり家庭なり課程なり仮定なりとしてであれ、「無限」なのは自己「ではない」(227:ibid.)。ましてや「そこから」「の過程」が問われる「時」期「ではない」(219:ibid.)。

何せ、「過程」とか家庭とか課程とか仮定とか「に含まれている」「始」まりや「終」わり「というの」を、「直観」するのは、「私」「ではない」(211:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。

「宗教」「は」、「哲学」「によるのほかはない」(203:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。そして「そこに」(203:ibid.)、「主体」的な「世界」における「コンポッシブル」な(composible)(195:ibid.)「もの」「を理解する」かぎりでの「自己自身」が「実在」するのは、「真」で「ある」(187:ibid.)。

「哲学」「ということは」、なまじ「分析」されると「何処までも否定的」になる(179:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。

「一致せ」らるる「先入見」「なる」ものに「種々」に「馴」ら「された」頃「から」(171:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)、我々が「彼」デカルトに在る「方法」を「いわゆる」「幾何学」でもって「証明する」や否や、「結論」「によって」「過程」および家庭やら仮定やら課程やら(163:ibid.)を「綜合 synthe`se ou composition」する、というのが「一つ」「であり」、「分析 analyse ou re`solution」する、というのがもう「一つ」「あるという」(155:ibid.)が、そのように綜合したり分析したりするのは、「此からして」おのずと「私」だ「ということができる」(147:NISHIDA,K.1944/89,pp.273-274)。

「もの」として「働く」「ことによって」「対象化する」「自己自身」「というのは」(139:NISHIDA,K.1944/89,p.273)、なるほど「自己自身」が「もの」として「働く」(131:ibid.)、という場合と同じく、「何物をも要せない」が、それにも拘わらず「他」「に」おいても「存在」する「自己」という「もの」が「ある」(123:ibid.)。
この「substance」をめぐっては、「哲学」としての「デカルト」(123:NISHIDA,K.1944/89,p.273)に「残されている」「問題」の「多く」が、「そこに」は「あるが」(115:ibid.)、「哲学」で「道徳」「を論ずるのが」、またおのずと「道徳」となるの「であり」(107:NISHIDA,K.1944/89,p.272)、もし、「もの」が「知られた」「のみである」ならば、そうした「もの」「に当」て「嵌まった」「形式」もまた、「認識」される(99:ibid.)ことになろう。

「世界に」おける「歴史」「と」いって「も」、べつに「科学」「という」こと「に始まるのでもない」(91:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。
「自己自身」「となればなるほど」、「個」として「唯一的」だが、そういう「自己」から「我々」「が出て来るのである」(83:NISHIDA,K.1944/89,pp.271-272)。「時間」「として」は「一」なるにも拘わらず、そのときに「否定」されている「自己」の「多」いのが「かかる世界」「である」(75:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。
このように、「越えている」「世界」「とともに、いつも」「内にある」「世界」「である」(67:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。「しかも」この「中に」あってなお、「世界」は「如何にして」も「時空」「でなければならない」(59:ibid.)。

「何人」(なんぴと)も、「自己」をとおして「考える」の「であって」(51:NISHIDA,K.1944/89,p.271)、何を「意味するのであるか」はともかく「如何なること」「において」も、「知るとは」、「かかる意味」だ、「と考える」(43:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。もちろん、「不可知的」なものが「単」なる「自己」「ではない」(35:ibid.)のだが、かといって「また自己」そのもの「を疑うことはできない」(27:ibid.)。

残念ながら、「我々」からは、「実在」することそのもの「は出て来ないであろう」(19:NISHIDA,K.1944/89,pp.269-270)。
「いわゆる」「為」すべき「当」然のことが「あるなど」と「いって」も、その「前に」まず、「存在」している「に過ぎない」(11:NISHIDA,K.1944/89,p.269)のが「如何なるものか」はともかく、「実在」しているものは「真」だ、「と考えられている」し、また、そう「でなければならない」(3:ibid.)。

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