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2008年11月17日

罠+檻(The One and Only)--G-even

NISHIDA,K.1944/89:西田 幾多郎「デカルト哲学について」
(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)

罠+檻(The One and Only)
[G-even]

G-even,[1114,1106,1098,1090,1082,1074,1066,1058,1050,1042,1034,1026,1018,1010,1002,
994,986,978,970,962,954,946,938,930,922,914,906,898,890,882,874,866,
858,850,842,834,826,818,810,802,794,786,778,770,762,754,746,738,730,
722,714,706,698,690,682,674,666,658,650,642,634,626,618,610,602,594,
586,578,570,562,554,546,538,530,522,514,506,498,490,482,474,466,458,
450,442,434,426,418,410,402,394,386,378,370,362,354,346,338,330,322,
314,306,298,290,282,274,266,258,250,242,234,226,218,210,202,194,186,
178,170,162,154,146,138,130,122,114,106,98,90,82,74,66,58,50,42,34,26,
18,10,2.]

一方で、「論文」で「の」「数理と」は、「論理」「と思う」「もの」「とも結合する」(1114:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)が、「方向」として「否定的」だ(1106:ibid.)。他方、「唯、自己」に「できる」「ということ」(1106:ibid.)が「体験的」になった「文化を」、我々は「単に」「東洋」的だと「と考え」ているにすぎない(1098:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。
要するに、「立場」の上では「同一」なる「自己」において、「矛盾」してしまうのが「真」であり、そこ「に返って」(1090:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、自分で「できると思う」ところ「に行くこと」だ(1082:ibid.)。

「デカルト」「のために」も、みずからの「行動」においては「真」で「なければならない」(1074:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)し、「自覚」したことについては、「何処までも否定的」「でなければならない」(1066:ibid.)のが、我々だ。そして、然るべきところ「へ返れ」という、その「哲学」とは「デカルト」のことだと「私」には「思われる」(1058:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)。
そこで「基礎附」けられた「形而上学」を、「学」として「自然」にするということが、我々の「新」たな「目的」(1050:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)である。

さて、何か「もの」「を主張する」際に、我々には「明」らか「にすべき」「相違」が(1042:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)、次のように「解せられる」(1034:ibid.)。すなわち、「もの」「を異にする」ような「方向」「とは」いっても、それはあくまで「その」「知識」において「科学的」「たる」ものにするための方向についてのことであって(1026:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、「もの」を「考える」ときの(1018:ibid.)ような「対象」の「なき」ままに敢えてそれを「対象」化するの「は」「哲学」「であり」(1010:ibid.)、また、「思想」「なる」ものが「完全」「にして」「十全」ならば(1002:ibid.)、その思想をとおして「自己自身」「において」「否定」された「自己」が(994:ibid.)、もっぱら「理解せられるもの」「としてのみ」「存在」する(986:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)。

なるほど、「自己」にとって「の」「現在」「とは、絶対」に「様相」として「考えられる」(978:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)が、みずから「実在」しつつも「何処までも否定」されて、「神」「の様相となった」(970:ibid.)。

今ここにおいて、「もの」「というべき」「空間」を「絶対」に、「あるいは」「現在」で「絶対」に、「限定する」のが「自己自身」だが、そうした自己「に」(962:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)おいてのみならず、「神」「はすべて」の「もの」「に」おい「ても」在る(954:ibid.)。このことを、「疑い」つつも「彼」デカルト「は」「考え始めたのである」(946:ibid.)。

何ら「理解する」「こともできず」に居ること「もある」(938:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)。「自己自身」「は」、「もの」というより事物として在るという「形式においては」、「存在」する(930:ibid.)。つまり、何だか「分からないもの」が「それ」「である」「が故」に(922:ibid.)、「存在」するのが「自己」である(914:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)、ということだ。

なお、「自己自身」との「関係」について「は」、「相互」「の対立」「から、直に理解せられるであろう」(906:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)。また、「全」体と「個」人「との関係」について「は」、「自己」「と」「神」の「如き」もの「において」、我々が云った(898:ibid.)はずだ。

「形相」「から」「質料」へ(890:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)と、「論理」をとおして「世界において」「実践」されて「歴史」になった(882:ibid.)。
「法」則でもって「弁証」やら弁償やらをするのは、決して「ヘーゲル」「でないことは」、今さら我々が云う「までも」なかろう(874:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)。

「一如」なる「心」「身」という「所」(866:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)で、「作り」つつ(858:ibid.)、「思惟するということも」、「我々」「ではない」ので「ある」(850:ibid.)。
たとえ、みずから「立っている」のが「危機」「である」(842:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)にしても、やはり「原理」としては、「死」ぬのも「生」きるのも「自己」である(834:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。
こうして、「原理」の「実在」することが「把握せられた」(826:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。

「我々」「ではない」「もの」「を含む」「個」「は真」なる「者」として「一般」化し(818:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「イデンティテート」「または」「インディフェレンツ」「から絶対的」になり、「その立場」「において」、「シェリング」の如し「となったのである」(810:ibid.)。

「克服せられたということ」「によって」なるほど「一応」は(802:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)、「内」「から」「考え」られたにし「ても」(794:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)、「何処までも」「自己」(786:ibid.)「はデカルトと異なって」(778:ibid.)しまう、となると、もしかすると、その「自己」(Ich)は「フィヒテ」「である」(770:ibid.)かもしれない。

いずれにしても、「深い」「論理」が「そこに」「なければならない」(762:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。「而して」(762:ibid.)、「主客」「の対立を越えて」(754:ibid.)、「ここに」「無論、私」に「できる」こと「を有つということ」になる(746:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)。
逆に、自分に「できない」「こと」を「考える」という場合には(738:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、本来ならば自分で「出なければならなかった」ような「概念」のほうが、「実在」する(730:ibid.)。

「彼」デカルト「から出立した」「自己」(722:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)において、もし、そもそも「為」されて「当」然「という」「ものがなければ」(714:ibid.)、「独断的」に「考える」こと「も」(706:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)あったかもしれない。
しかしそれにしても、「今日」「から考えられた」「科学」「が」(698:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「自己自身」「なくして」、はたして「問題」として「可能なるか」(690:ibid.)。
そのように我々は「考え直して見なければならない」し、そういう「立場に返って」(682:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、今度は「カント」が「批判せられなければならない」(674:ibid.)。

「デカルト」「哲学」(666:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)は、「スピノザ」「から」「デカルト」へと「徹底化」する「方向」で再び、同じく「フィヒテ」「から」「カント」まで「によって」、改めて「考えられたといってよい」(658:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)。

或る「実体」が「形而上学」「を限定する」(650:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)と、その一方で「根柢」「ということが」「限定」されて、それらが「相互」に「対立」する(642:ibid.)、と、「斯くいう」「ことができる」(634:ibid.)。「無論」(634:ibid.)、これは「私」「ではないが」、或る「実体」「によって」は(626:ibid.)、たとえば「カント」「に徹したであろうか」(618:NISHIDA,K. 1944/89,p.285-286)。「私」「において」「かかる意味」「に求められた」(610:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)。そして、その「意義」「そのもの」が「実在」して、「そこ」に「ある」(602:ibid.)。
「主語」として前述の「如き」「的となったのは」、「哲学」で「批評」した「カント」「に過ぎない」(594:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)。

「自己」「から」「論理」「では」なきもの「に属する」(586:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)、という「者」の「論」ずることについて、「いわゆる」「経験」をしたのは、「無論」、「私」「である」(578:ibid.)。すなわち、そこ「から起」こ「る」(578:ibid.)、「そういう事実」「が」まず「あって」こそ、「自己」も「ある」、「ということ」だ(570:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、ところで、「内」「から出立することが」(562:ibid.)、もし、前述の「如き」こと「を否定した」ならば(554:ibid.)、「それ」の在る「所に」(546:ibid.)「存在」している「自己」「が」、「事実そのもの」を「疑うという」の「である」(530:ibid.)。
その「命題」として、「コーギトー・エルゴー・スム」「がある」(530:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)。

「神」は、「真」であり(522:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、決して「自己というもの」で「もない」(514:ibid.)。「根柢」を「自覚」するのが「我々」「として」「存在」し、そのような自覚の「対象」として「神」のこと「が否定せられるとともに」(506:ibid.)、「此」「に達したものということができる」(498:ibid.)。

「十全」「である」「かぎり明晰判明」「とする」ような、そうした「原因」については(490:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、我々が「知識」「を以」ってすれば(482:ibid.)、たとえ、然々の「如き」もの「ではないという」(474:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)、「撞着」する「自己」のこと「を」我々が「考える」ときも(466:ibid.)、そうした撞着を「離」したり話したりする「こと」にして「から」は、「本質」として(458:ibid.)、「そこで」「触れている」「問題」とは(450:ibid.)、すなわち、「自己自身」「によって」在る(442:ibid.)とはいえ、「それ自身によって」「ではない」のに「実在」する、ということで「ある」(434:ibid.)。

「何物も生ぜない」のは「無から」「である」(426:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)。そして、相変わらず「存在」するのは「神」である(418:ibid.)。「調和」することを「予定」している「ライプニッツ」も云い(410:ibid.)、また、「主観的たる」「真理も」示し、更には「明晰判明なる」(402:ibid.)「スピノザの」云うのも、「無論それ」だ「と思う」(394:ibid.)。

「もの」「を理解する」(386:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)ことを、「いわゆる」「彼」デカルト「なるものに求めた」(378:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)。「そこから」(378:ibid.)我々が、「此」で「実践」して「賭し得る」のは(370:ibid.)、「返って」いる「点」から「出立」することであり、そのことを、「なお一度」、「デカルト」および「我々」は「求めるのである」(362:ibid.)。

「考えられる」「規範が」「形式的」だ、「といって」も、「そこから」「実践」するの「を打」ち「切ったに過ぎない」(354:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)のであって、我々にとっては、その規範に当たるのが「カント」だ「と思う」(346:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)。

もしその規範が「デカルト」「であった」(338:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)ならば、「自己自身」が「世界」において「実在」するのは、あくまで「歴史的」「なる」ことであろう(330:ibid.)。「即ち」「歴史」において「実在」する(322:ibid.)ということであって、その「立場」を「自覚」して「懐疑」する「時代において」(314:ibid.)、「自己自身」が「それ」「を把握する」(306:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)。
ただ、その「過程」や仮定や家庭や課程が「無限」に在ることに関しては、デカルトとカントの「両者共に」同じ「である」(298:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)。

「而して」(298:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)、いわゆる「形」「の世界」を、我々は、「科学」が「成立する」「時に」、「表現した」(290:ibid.)。

その「科学」「は」、なるほどそのまま「哲学」として「そこ」に「ある」(282:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)が、そうした「立場」「を映す」「自己自身」「が」、もしそのまま「世界」における「立場」(274:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)になるのであれば、それは「科学」「と択ぶ所がない」のであって、それ「故に」、それはまた「懐疑」さるべきものとして、そして(266:ibid.)、「我々」「なるを以」って、「すべて」前述の「如く」「から理解せられるであろう」(258:ibid.)。

さて、そうした自己自身「から」「実践」するのが「真」「である」(250:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)となれば、「それは」「限定」されて「相互」に「客観」的になる(242:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)はずだ。

もちろん、「問題」は「学問」「にても呈出することができる」(234:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)。「しかし」(234:ibid.)「そうしたもの」「といえども」、我々が「直観」するかぎりでは「芸術的」「である」(226:ibid.)し、いよいよそれを「媒介とする」べき「時」「である」(218:ibid.)。

「知識」は、「客観的」なもの「を含んでいなければならない」(210:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。「然らざれば」(210:ibid.)、「自覚」していることを敢えて「否定」することで「絶対」に「明」らか「にするのは」、「自己自身」(202:ibid.)であるはずだ。

いずれにせよ、「神」を「基体として」期待する「属性」「なる」ものは、「無限」「ではない」「実体」「である」(194:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)。
このように「自己自身によって」「要せない」のは、「何物」であれ「他」「に」「存在」するが(186:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、そうした者も、どうやら「自覚」「的」な「懐疑」をとおして「徹底的」に「考えているようである」(178:NISHIDA,K. 1944/89,pp.274-275)。また、用事がなくとも「幼時」「から得た」器「官」でもって「感」じたことは、「我々」の「ものなのであるが」(170:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)、「公理」、「要請」、「定義」「等」「というのは、これに反し」「綜合」的「である」(162:ibid.)。
神について「二通り」「の仕方」「において証明 de`montrer」するのは、「第二答弁」を『省察録』のなかで記した「彼」デカルト「でなければならない」(154:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)。

「もの」として「働く」「自ら」は(146:NISHIDA,K.1944/89,p.273)、「もの」が「働く」の「を媒介として」、「否定」された「自己」「を含」む(138:ibid.)。「即ち自ら」「によって動くもの」とは(130:ibid.)、「それ自身に」おいて「先ず」「は」自己「であろうか」(122:ibid.)。
「それまで」に「打ち切ってしまえば」、「問題」「として捨てられた」ことになる(114:NISHIDA,K.1944/89,pp.272-273)だろう。

「哲学」で「知識」「を論ずるのが」、そのまま「知識」「を考える」ことになる「のである」(106:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。

「いわゆる」「実在界」「に入って来ない」ような「視野」「というものを」「知る」と、我々は、「何処までも」(98:NISHIDA,K.1944/89,p.272)、そして「如何にして」も、「知識」「がある」とか、「単に知識」がないとか、「という」こと「に始まる」のだが、これこそは、いったい、どうしてなのか、そしてどこまでなの「か」(90:ibid.)。「為」されて「当」然のこと「から無限」たることが「立場」として「実在」する、というのが「かかる」こと「である」(82:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。なるほど、「考えられる」ことは「論理」「として」「形式」化される(74:ibid.)と、すなわち、「考えられる」ものが「存在」する、ということを「自覚」しているのは、ほかならぬ「自己」だ(66:ibid.)、ということになる。そして、その自己「を越えたもの」が、実在界に入らぬこの視野であり、それ「とともに」(58:ibid.)、「自己」「は考えられた」(50:ibid.)。

それでも、「知る」のは「自己自身」だ(42:NISHIDA,K.1944/89,p.270)となると、「自己」の「対象となるもの」が「自己」「となることはできない」(34:ibid.)。「何となれば」、「疑うものは」「自己自身」として「存在」するからである(26:ibid.)。

そうした「信念」の「如き」ものに我々が「真摯」に「賭する」ことは、「死生」およびその姿勢であって、我々としては「そこから」「考えるのほかない」(18:NISHIDA,K.1944/89,p.269)。こうして、たとえば「夢幻」やら無限やら「は」「それ」「でなければならない」(10:ibid.)、と「論」じられたものが、「認識」され、それを「批評」するのが「哲学」だ、「と考えられた」(2:ibid.)のである。

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