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2008年11月18日

罠+檻(The One and Only)--H-odd

NISHIDA,K.1944/89:西田 幾多郎「デカルト哲学について」
(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)

罠+檻(The One and Only)
[H-odd]

H-odd,[1113,1105,1097,1089,1081,1073,1065,1057,1049,1041,1033,1025,1017,1009,1001,
993,985,977,969,961,953,945,937,929,921,913,905,897,889,881,873,865,857,
849,841,833,825,817,809,801,793,785,777,769,761,753,745,737,729,721,713,
705,697,689,681,673,665,657,649,641,633,625,617,609,601,593,585,577,569,
561,553,545,537,529,521,513,505,497,489,481,473,465,457,449,441,433,425,
417,409,401,393,385,377,369,361,353,345,337,329,321,313,305,297,289,281,
273,265,257,249,241,233,225,217,209,201,193,185,177,169,161,153,145,137,
129,121,113,105,97,89,81,73,65,57,49,41,33,25,17,9,1.]

「基礎」における「科学」は、「今日」ではたとえば「それ」「である」「と」いうように、我々には何やら「考えるもの」「がある」(1113:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)けれども、そこに「潜んでいる」その「性向」や成功は、なかなか「主観的」なものである(1105:ibid.)。それにも拘わらず、「論理的」になった「文化を」なぜか「西洋」的だ、として「人は」「考えるのである」(1097:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。このように、「根元」において「矛盾」しているのが「自己」だ(1089:ibid.)。

さて、「方向」として「二つ」に「相反する」ところ「から」「矛盾」するのが「自己」である(1081:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)とはいえ、その自己によって「築き上げられた」「基礎の上に」あるのは、「深く大なる」「思想」なのである(1073:ibid.)。

必ずしも「デカルト的」な「方法」だけが「何処までも」「哲学」になるというわけ「ではない」(1065:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)のであって、あたかも何かを「失ったか」のような「問題」それ「自身」もまた、「哲学」(1057:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)となる。
ということで、「デカルト」の「評した」ような、いわば「根柢なしに建てた」(1049:NISHIDA,K. 1944/89,p.296)、「哲学と」「科学と」は、前述「の如く」、「私」にも「なければならない」(1041:ibid.)ものとなる。

そのように、「往々」にして「知識も」「十全なる」のが「哲学」だ(1033:NISHIDA,K. 1944/89,p.295-296)、となると、「認識」される「対象」「は」、たとえば「これ」「である」(1025:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)、として、これがもし、「そこ」で云って「いる」こと「を意味する」「もの」「と一致する」ならば、その「対象」の(1017:ibid.)、「自覚」されたことを「否定」するという「方法」で「哲学」は「基礎附けられるのである」(1009:ibid.)。

「神において」「構成するかぎり」の「精神」(1001:NISHIDA,K. 1944/89,p.295)にしてみれば、「絶対の」「知識とは」、たとえば「十全なる」「スピノザ」に有るの「である」(993:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)。
「その本質」「を含み」つつ「存在」するのが(985:NISHIDA,K. 1944/89,p.294)、「属性」は「斯くして二つ」「である」(977:ibid.)。その二つのうちの「神」のほう「は消されて」、「独立」して「自覚」したのが「自己」だ(969:ibid.)。
とはいえ、「同一的」な「自己」において「矛盾」するのは、「絶対」に(961:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)、「何」か「であった」(953:ibid.)はずなのだ。それはすなわち、「現実において」も、「歴史」「として」の「自己」も(945:ibid.)、「何物も」「なくして」さえも、「神」は在る(937:ibid.)、という、「かかる」「ものである」(929:ibid.)。

「囚われ」て居る「形式」でもって「論理」「的」な「主語」として我々の「考えるの」「を要する」(921:NISHIDA,K. 1944/89,p.293)ような「概念が」、「神」「にほかならない」(913:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)。

「更に『第五省察』において」(913:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)云われるように、「論理」としては「同一」でも「自己」においては「矛盾」「であるという」ことを「始」めとして(905:ibid.)、「第三省察」「について」云えば、そこで「証明」されたのは、すなわち、「存在」するのが「神」である、ということだ(897:ibid.)。

「質料」「から」「形相」「として」(889:NISHIDA,K. 1944/89,p.292)、すなわち、「我々」「ではない」ものから「論理」でもって「力」が「形成」されて「歴史」となる(881:ibid.)。
その際、「論理」「的」な「主語」については(873:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)、「否定した」「自己を」「意識」して「抽象的」にすると、「我々」「という」もの「に証せらるるなり」(865:ibid.)。

我々「ではない」ような「こと」「から」云い「得る」(857:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)ことが、もしあるとすれば、せいぜいそれは、「実践というもの」「の外に」も、「行動というもの」が、「歴史」「に」は「ある」(849:ibid.)、ということくらいであろう。
何しろ、みずから「立っている」その「立場」「において」、「生」きるか「死」ぬか「決断」して「実践」する(841:NISHIDA,K. 1944/89,p.291)のは、決して「我々」「ではない」(833:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)。

我々ではないようなところ「から」(833:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)生じた「立場において」「自覚」する(825:ibid.)するも、もし「ヘーゲル」「を脱していない」というのであれば、それはいわば「卵殻」や乱獲や濫獲のようなものであるが、それでも、「主観」としては、「いまだ」に「徹底的」だ「とも思うのである」(817:ibid.)。

「世界」「において実在」する(809:NISHIDA,K. 1944/89,p.290)ところの、「ヘーゲル」の「主義は」、なるほど「主観」「的」に「自我」を「純粋」な「点と」して「出立」している(801:ibid.)が、その「外」「を」「自己」「に撞着せなければならない」(793:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。

以上より、その程度なら「我々」にも「できる」、「ということ」「が把握せられた」(785:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。しかもそこには、きっと「ヘーゲル」「と結合するものがあると思う」(777:ibid.)。

ところで、「ヘーゲル」という「人」が「立った」のは、「立場」「的」には「論理」だが、「純なる」もの「を否定して」いる(769:NISHIDA,K. 1944/89,p.289)。そして、「論理的」に「何処までも」「その立場」「から出立しようとする時」(761:ibid.)、「主客」「の立場とは」、「論理」「ではない」ような「形式」「的」な「主観」をとおして、あくまで「自己」(753:NISHIDA,K. 1944/89,p.288-289)にとって、「意義」の有るものとなる(745:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)。その際の「主語」「というのは、一応」(745:ibid.)、「対象」としての「自己が」「考える」の「である」(737:ibid.)。

そのなかで、「新」た「なる」「論理と」して(729:NISHIDA,K. 1944/89,p.288)、「コーギトー・エルゴー・スムといって」も(721:ibid.)、我々としては、「考える」べき「何物もないのである」の「か」(713:ibid.)。

「内」「から」「外」「を考え」(705:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)ていく「世界」で「は」、我々は、たとえ「時代」「の」なかで(697:ibid.)、「知識」として「客観的」なことについてであっても、「如何にして」も(689:ibid.)、「分析」されたことを「自覚」する、という「立場」で(681:ibid.)、「哲学そのもの」を「も」、「批判」してしまう(673:ibid.)。

「フィヒテ」「と」いえども(665:NISHIDA,K. 1944/89,p.287)、「超越」する「方向へ」、「述語的」なもの「は」(657:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)進み、「自己自身」「は」「主体」「的」に「述語」「の方向に進んだ」(649:ibid.)。どうやら「主客」の「如き」もの「から動かされる」「という」(641:ibid.)ことに「なった」、「という」ことらしい(633:ibid.)。

あたかも「それ自身」「の如く」に(625:NISHIDA,K. 1944/89,p.286)、「自覚」されたことを敢えて「否定」するという点で、「真に」(617:NISHIDA,K. 1944/89,p.285)、「自覚」する吾を「超越」する(609:ibid.)のである。さて、この超越について、「矛盾」している「自己」「そのもの」に(601:ibid.)、「作用」して「聯合」された「観念」でもって(593:ibid.)してもなお、もし、「自己」「が」「論理」的「である」が「故」、「と考える」と(585:ibid.)なると、「同一」なる「自己」にとって「矛盾」する場合には、「かかる」超越の「ことすら」「疑う」の「である」(577:ibid.)。

「事実」としては「同一」であっても、「自己」において「矛盾」するのであって、「外と」「内と」、あるいは「物と」「自己と」いう(569:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)こと「それ」を「考える」(561:ibid.)と、「すべて」「から」(553:ibid.)「否定する」ところの「自己自身」「は、何処までも」やはり「自己」「として把握せられるのである」(545:ibid.)。

「私」「が」「もの」を「疑う」「というなら」(537:NISHIDA,K. 1944/89,p.284)、せいぜい「私」「が考えるかぎり」(529:ibid.)でのことだろう。しかもその際、何かが《私》を「欺いている」「のでもなかろうか」、と(521:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、思われることもある。
しかし、「何物」「において」も(513:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、「自覚」された「自己」を、「我々」「は知るのである」(505:ibid.)。

「斯くして」(505:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)、「極」めて「論理」「的」な「主語」「から出立して、その」「実体」(497:ibid.)としての、「神」「の観念が」「我々」には「ある」(489:ibid.)。
そしてまた、やはり「誠実」なのは「神」である「と思う」(481:NISHIDA,K. 1944/89,p.283)。

「金貨」にしてみれば「百円」以下であれ、「観念」としては(473:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)たとえば「山」「のない」「谷」「というものを考える」(465:ibid.)のが、我々である。また、たとえば、「三角形」「であるということ」(457:ibid.)においても、「存在」するのは「神」だ(449:ibid.)。

「自己自身」「というのは」、とりわけ「原因」「において」(441:NISHIDA,K. 1944/89,p.282)、「それ自身によって」「自己」を「考える時」に、「斯く」(433:NISHIDA,K. 1944/89,p.281-282)「求める」のであって、あくまでその「ことから」、「原因」として「存在」するのが「自己」である(425:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)、と我々は述べているにすぎない。

「第三省察」「において」「デカルト」が「起」こ「さざるを得ない」(417:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)ような、「かかる考」えを、我々は敢えて再び「デカルト」「に求めた」(409:ibid.)。

「いわゆる」「事実として」、「内的」な(401:NISHIDA,K. 1944/89,p.281)ところから、「外に出た」という、この「方法」(393:ibid.)は、ただ「自己自身」「によって理解せられるのみならず」(385:ibid.)、この「基本的」「なるもの」は「何処までも主語」なり守護なりとして「実在」すること「を脱しなかった」(377:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)。

こうして、「死」ぬも「生」きるも「真に」「我々」「でなければならない」(369:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)こととなった。

「原理」を「実践」する(361:NISHIDA,K. 1944/89,p.280)、という、「この問題」「は」「カント」の云った「如く」(353:ibid.)であろうが、我々の「入った」「哲学」は(345:NISHIDA,K. 1944/89,p.279)、「世界」において「科学」と並んで、「近世」にあった(337:ibid.)。このように「表現」したりされたりするのが「自己」である、というその「時」にみずから「入った」「時代」などにも依るのであって(329:ibid.)、たとえば「キリスト教」をとおして「哲学」を「自覚」したのは「アウグスチヌス」「であった」(321:ibid.)し、「ギリシア」「の哲学も」「ソクラテス」に「まで発展し来ったと思う」(313:ibid.)。

「原理」を「自覚」して「限定する」「自己自身」の「立場として、そこに」(305:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)、「自覚」される「方法は」、「哲学」「である」(297:ibid.)。

「自己自身」で「直観」して「行為」する際、「世界」において「表現」される「自己」「というのは」、「科学」で「ある」(289:NISHIDA,K. 1944/89,p.278)。
ところで「学」を「形而上」に「を求める」にあたって、「実在」することの「外に」依っているものを、「推論」として「排斥したのは」、「形而上学として」の「カント」「でなければならない」(281:ibid.)。これは、我々がいわば「見る」「ものなくして」なお「見る」ような「学として」、「実在」する(273:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)が、それだけでなく、この学においては、「懐疑」される「ため」に「分析」されたり、「分析」される「ため」に「否定」されたりもする(265:ibid.)。

「此」処で云った「ことも」、すなわち、「有つ」べきなのは「同一」なることであり、これを「自己」における「課題」のうちの(257:NISHIDA,K. 1944/89,p.277)一つとして、「求める」べきであり、そうした「真理」「は」、「自己」や「我々」にある(249:ibid.)。

さて、「主観」「を以」って「いえば」(241:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)、「問題」というのは、「如何なる」「立場から」「論理」化されているのか(233:ibid.)。
「考」えとしては「神秘的」だったり「幼稚」だったりしながらも、「極めて」(225:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)「自覚的」「である」(217:ibid.)こともある。
「故に」(217:NISHIDA,K. 1944/89,p.276)、「直観」「において」「意味」するところの「何らかの」もの「は」、必ずしも「知識」「ではない」ようなもの「から成立する」(209:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、といえるだろう。

「否」、「実在」することがこのように「明」らか「にせられるに」あたって「は」(201:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、「属性」として「理解せられるもの」が、「単にそれ自身によって」「対立する」(193:ibid.)こともあろう。
とはいえ、「自己自身」「である」「と考えるもの」(185:NISHIDA,K. 1944/89,p.275)、「ということ」について、「主として」「説くために」も、「人」「は此」処「に」おいて、きっとそれは「デカルト」「であろうという」(177:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)はずだ。

「明晰な」「ものよりも、一層」「幾何学」的に(169:NISHIDA,K. 1944/89,p.274)なれば、おそらくそれは「方法」として「理解せられる」し、「証明」も「せられ」る(161:ibid.)だろうが、「分析」されて「否定」されて「徹底的」になったのが、その方法「である」(153:ibid.)。すなわち、「もの」として「動く」と「自ら」「を含み」(145:NISHIDA,K.1944/89,p.273)、そのかぎりでは、「否定」された「自己」「の中に」おいても、さらに「自己」を「何処までも」俟た「なければならない」(137:ibid.)。

他方で、「自己自身」「とはいわれない」「もの」「によって」在る(129:NISHIDA,K.1944/89,p.273)のが、「如何なるもの」であれ、「実在」するのは「真」である(121:ibid.)。

なるほど「問題」それ「自体」が「物」「なる」うちは、「不可知的」だ(113:NISHIDA,K.1944/89,p.272)が、そうした「問題」「から」生じた「種々なる」「立場」が、「その」「哲学」に「あるのである」(105:ibid.)。

「以上」「の立場に立った」ままで「認識」したのが「対象」だった、ということが、「一度」は「ある」(97:NISHIDA,K.1944/89,p.272)。

我々に「可能なる」のは、せいぜい「学」を「物理」的にして「純粋」にしたり、「数学」を「純粋」にしたりすることくらいだが、いずれにせよ(89:NISHIDA,K.1944/89,p.272)、「存在」というよりむしろ実在する(existentia)のが「本質」(essentia)「であり」、また、「本質」「においては」、「存在」するというよりむしろ実在するのを「自覚」する、「ということである」(81:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。

こうして「形成」された「自己」に、「世界」が「表現」されている(73:NISHIDA,K.1944/89,p.271)。たとえどんなに「我々」「によって」「形式」上で「同一」になっていたとしても、「自己」においては「矛盾」「である」(65:ibid.)。

この「世界において」「時空」を「もの」として「知る」「ということは」、なかなか「考えられない」(57:NISHIDA,K.1944/89,p.271)かもしれない。「しかしそれ」「ができる」「こと」について、そのとおりに「考える」の「も」、「自己」だ(49:NISHIDA,K.1944/89,p.270)。そして、その際の「自己」とは、また「我々」になるの「でなければならない」(41:ibid.)。

「対象となる」「自己」が「自己」であるのは「いうまでもない」ことだが(33:NISHIDA,K.1944/89,p.270)、自分の「疑い得る」ものが、あたかも「実在」するもののうちの「すべて」であるかの「如く」に云うことは、「デカルト」からは、--これもまた勿論我々が云う「までもない」ことだが--、決して「出て来ない」(25:ibid.)。

もしかしたら、「夢幻的」だったり「現象的」だったりするのが、「単」なる「生命」としての「我々」なの「かも」しれ「ない」(17:NISHIDA,K.1944/89,p.269)が、「然らざれば」、世「界において」「実在」するのが「真」となる(9:ibid.)。
こうして、我々によって「形而上学的」にも「独断的」にも「棄てられた」「哲学」は、「デカルト」「以来」のものから、「カント哲学」にまで及ぶ(1:NISHIDA,K.1944/89,p.269)。

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