注目の投稿

溜まってた記事リンク放出

Geminiの生成物を元にChat GPTと雑談 https://note.com/the_shynamites/n/n2b43fe5d4f83 chart--That's Fusion, Not Confusion. / med. 6.H2- https://note....

2008年12月1日

Getaway is the better way.(Part 5)--再公開

ANDOH 1998:安藤 正人「情念の分析と道徳」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998、
pp.118-127)

KUME 1996:久米 博「『傷ついたコギト』から自己の解釈学へ」
(『思想』No.869所収、1996年11月号、岩波書店、pp.116-132)

MURAKAMI,K.1999:村上 勝三「感覚の覚醒に向けて--デカルト「感覚」論の三面」
(河本 英夫・佐藤 康邦 編『感覚--世界の境界線』所収、白菁社、1999、
pp.51-71)

MURAKAMI,K.2000:MURAKAMI,Katsuzo(村上 勝三),
Le 《sensus internus》 cartésien comme coeur de l'éthique d'un individu,
(東洋大学文学部紀要『白山哲学 第34号』所収、2000、pp.i-xxxiv)

MURAKAMI,K.2002-a:村上 勝三「私を真上に超える」
(『現代思想』No.30-4所収、2002年3月号、青土社、pp.231-243)

NODA 1966:野田 又夫『デカルト』(岩波新書、1966)
OCHIAI 1948/49:落合 太郎「後記」(1948年記)
(三木 清 訳『省察』所収、岩波文庫、1949、pp.159-167)

SAITOH,Y.2003:斎藤 慶典
『シリーズ 哲学のエッセンス デカルト 「われ思う」のは誰か』
(日本放送出版協会、2003)

SAWADA 1996:澤田 直「〈自由〉と〈語る主体〉--サルトルのデカルト理解--」
(『思想』No.869所収、1996年11月号、岩波書店、pp.155-172)

TAKEDA 1965/76:竹田 篤司『デカルトの青春--思想と実生活--』
(勁草書房、1965初版、1976新装版)

YAMAUCHI,S.1999/2000:山内 志朗「訳者あとがき」
(アイケ・ピース 著/山内 志朗 訳『デカルト暗殺』所収、大修館書店、2000、
pp.168-171)


Getaway is the better way.(Part 5)
for THE MAT MIRROR.

存在/思惟

さて、「事態」が「このよう」になると、「破壊されている」のは「文法」だと「思われる」(SAITOH,Y.2003,p.74)。ここで敢えて「書いて」みたのは、「表現」が「舌足らず」に(SAITOH,Y.2003,p.71)なりそうだからである。筆者にしてみれば、「書いた」というよりは、刻みつけたと云いたい(OCHIAI 1948/49,p.159)。べつに「ノート」ではないものだとはいえ、それが「目の前に」「あって」、「それに」「文字を刻み込んでいる」のが「私」だ(MURAKAMI,K.1999,p.57)。

*****

「存在」することと「思惟」することについて「考える」にあたって、崩れてくるのは「人称性」であり、また、「語り」が現れだすと、「純粋」に現れてくるのは「消えた」はずの「人格」であった(SAWADA 1996,p.167)。なるほど「二人称」を「介在」すると、「興味深い」ことが「見られる」(ibid.)。すなわち、「問いかけ」られて「朦朧とした」なか、「突然、一人称から三人称へ」と「変換」したり、「三人称から一人称へ」と「回帰」するのだ(ibid.)。何しろ、「私」の「嫌い」なのが「ルネ・デカルト」「である」(YAMAUCHI,S.1999/2000,p.168)。

ポール・リクールと同様に、「まず」、「それ」が「誰」なのか、という「問いを発する」のだ(KUME 1996,p.120)。すなわち、「語る」のは「誰」なのか、「行動する」のは「誰」なのか、「自分を語る」のは「誰」なのか、「責任」の「帰属」する「主体」とは「道徳的」には「誰」なのか、ということを「問い、それの答えとして、最後に自己に到達しようとするのである」(ibid.)。

たとえば「もし」「苦痛で」その腕が「震えている」ならば、たとえそれが「精神的」なものであれ、歴とした「私の苦痛」で「ありうるはずだ」(MURAKAMI,K.2000,p.ii/187)。しかもそうした苦痛の「理由」の「一つ」は、べつに「昨日」「完成しなかった」「仕事」のことでは「ない」のだ(ibid.)。

ところで、「この苦痛を引き起こした」「対象」を「記述できる」「私」が「分類し」たのと、「範疇」の「一つ」である「苦痛」とが「同じ」であるかぎり、そういう記述やら分類やらという「仕方で」「理由」なり根拠なりを「そこにおいて」「展開させる」のは「私」だ
(MURAKAMI,K.2000,p.ii/187)。「そのとき」、その範疇の「把握している」のが、「この対象についての記述」と「諸々の状況についての」記述とであるのは、「必然的」だ(ibid.)。

「私」に「理由」が「ある」ということと、「私が」「原因」で「ある」ということとを、「どのようにして」も「求めること」の「できる」のが、「私」だ(MURAKAMI,K.2002-a,p.241)。もし「私に希望」が「ない」ならば、「私が」「原因」で「私」は
「実在する」ということになるだろう(ibid.)。そしてもし、自分の「とりつかれる」のが「妄想」や「恐れ」や「不安」であるかぎり、そうした「者」が「行く」のは「暗闇」の「状況である」(NODA 1966,p.5)。
*****

『嘔吐』の「主人公」のみならず我々が「それと」は自覚せぬまま「追っている」「足跡」も、「デカルトの」「書」であるが、このことが「明確に」なる「途上で」我々が「その」「過程を記述した」ところ、「音を立て」るが如く「崩れて」いったのは、「それまでの信憑」のほうだった(SAWADA 1996,p.166)。「当時の彼」デカルトおよび我々当事者が「思わずも」窺い「見た」のは、「その自己を」いわば足元から「脅かし」引きずり込む
「怪物の」ようなものの「姿」だったが、この「ことは」、「これまで」「仮」に構築することで「安定」させていた当事者みずからの「調和感を、がたがたと崩すもの」として、「彼」デカルトおよび我々当事者に「大きな衝撃を」与えた(TAKEDA 1965/76,p.112)。

「懐疑」することを「方法」にする「必要があると考えた」「デカルト」については、「狂気と映る」(SAWADA 1996,p.166)。「もっとも、狂気に関して」云えば、「それ」が「現れた」のは「ここ」が「はじめて」だという「わけではない」のであって、そこで「擬態されている」のは「譫妄」で「錯乱」した「状態」である(ibid.)。現れるのが「私」で「ある」、という「瞬間」は、ひじょうに「危機的」だということを「象徴」している(ibid.)。すなわち、「世界」を「観」て「住んでいた」という「状態」が「日常」だったのに、「今」「消えてしまった」のだ(ibid.)。じつに「恐ろしい孤独」だった(TAKEDA 1965/76,p.33)。何しろ、みずからが「破壊されている可能性に直面したことになるのだ」(SAITOH,Y.2003,p.75)。

「突然の不意打ち」を「受ける」のが「精神」であることに、我々は「まず」「き」(ANDOH
1998,p.122)、「外界との完全な隔絶を」我々は「そこに」見た(TAKEDA 1965/76,p.33)。「デカルト」に限らず、その「精神は」、「固く自我の内部に閉鎖されていた」のだ(ibid.)。もし「終生発展をもた」ないとなれば、「発展」どころか「移転の連続」となるだろう(ibid.)。それに、もし「数え切れない」「不遇のうち」に我々が「哲学者になると」したら、きっと「淋しく死んでいった」だろう(YAMAUCHI,S.1999/2000,p.169)。
*****

「デカルト」および当事者は、「どのように逃げ」隠れしようと、「人間関係にまつわる不安だけは絶対に避けようのないことを」、今こそ「身にしみて感じずにはいなかった」のだ(TAKEDA 1965/76,p.97)。いくら「明晰判明」ではないとはいえ、「感覚」して「知」ると、まるで「勢い」よく「鮮明」に「私を撃つ」かのようだが、それは、「物体」であれ「身体」であれ、「外界」と「遭遇」したのが「直接的」だった、ということの「結果」の「ゆえ」だ(MURAKAMI,K.1999,pp.60-61)。

「そこで」「執拗に繰り返される」「je pense と je suis」から続く「文」は「ほとんど譫言のようになった」(SAWADA 1996,pp.165-166)。「とくにこの時期について」の「記述は」、「自伝的」であるにも拘わらず、「韜晦をきわめた筆致によって極度にぼかされて」いることもあって、「なかでも」「具体性に」乏しい(TAKEDA 1965/76,p.21)。けれども、自分で云え「なくなる」「ことが」「いろいろと」「はっきりすれば」、それだけでも、とりあえず「思想」に(NODA 1966,p.i)なるだろう。のみならず、どんなに「混沌」としていようが、あるいは逆にどんなに「明晰」としていようが、「記されている」のは「何よりも」「まず」「事実」なのだ、ということに我々は「注目したい」(SAWADA 1996,p.165)。なぜなら、「デカルト」のみならず我々の「精神史を」辿るうえで、これは決して「無視することのできないもの」だからである(TAKEDA 1965/76,p.21)。

produced by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Oct.12,2006.