(上田 閑照 編『西田幾多郎哲学論集 III 自覚について他四篇』所収、岩波文庫、1989、
初出:『思想』1944年(昭和19年)7月号)
罠+檻(The One and Only)--AEBFCGDH-1
*論理を経た形式および文化*
A-1120-1112-1104
E-1116-1108-1100-1092
B-1119-1103-1095-1087-1079
F-1115-1107-1099-1091
C-1118-1110-1102G-1114-1106-1098-1090-1082
D-1117-1109-1101-1093-1085
H-1113-1105-1097-1089
[西洋では文化から形式が発達した]
そもそも、「基となっていた」のは、「形式」「ではなかろうか」(1120:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)。
まず、「論理」「の根柢に」おける「文化」が、たとえば「東洋」にあるとなれば(1112:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、「民族」として「西洋」なのかどうか、については、「そこに」おいては「必然的ではない」(1104:NISHIDA,K. 1944/89,p.297-298)。
ましてや「真」「というもの」は、「固」より、「式」としても「推論」されるが(1116:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、「我々」が「今日」「に撞着した」「文化」は、なぜか「西洋」では「発達しなかった」、「というもの」だ(1108:ibid.)。
もちろん、何か「ものがある」ということを「体験」する際の、その「根柢にも」「文化」があって、もしそれを「西洋」「というならば」(1100:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、「私」に有る「途が」「融合」した「文化」は、おそらく「西」にも「東」にもある(1092:ibid.)はずだ。
[東洋では体験から文化になった]
さて、このように、「論理」でもって「分類」されたもの「すべて」「から発達」していることについて(1119:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、「私」に「ない」「所」を「択ぶ」べく「臨む」(1111:ibid.)際に、「必ずしも論理的」に「行くという」わけではないような「方向へ」(1103:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、「絶対的」なものを「即」座に「現実」「として」「限定」してしまうのが、「自己」である(1095:ibid.)。とくに「後者」は「文化」として「は」いわば「東洋」的であるが(1087:ibid.)、「問題」「そのもの」は、「疑」い「から出立するのである」(1079:ibid.)。さらに「私」の「如く」我々が「触れた」こと「に」ついて(1115:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)云えば、「論理」「それ自身」は、「文化においては」「東洋」「に向」かった(1107:ibid.)。
したがって、もし「体験的」になった「文化を単に」「東洋」「という」(1099:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)のであれば、我々は「そこに」「思う」ところ「から出立せねばならぬ」(1091:ibid.)。
[論理と自己]
「論理」「はギリシヤ」において「従来」から在るのだ、「と」「考える」のが我々「でなければならない」(1118:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)、というのであれば、もうそろそろ、我々も「戦」(いくさ)「なくして」「飛行機」「を有たなければならない」(1110:ibid.)のであって、これと同様に、「認識」された「対象」から「自覚」したことを「真」とするのが、「自己」である(1102:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。
その一方で、「論文」で「の」「数理と」は、「論理」「と思う」「もの」「とも結合する」(1114:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)が、「方向」として「否定的」だ(1106:ibid.)。他方、「唯、自己」に「できる」「ということ」(1106:ibid.)が「体験的」になった「文化を」、我々は「単に」「東洋」的だと「と考え」ているにすぎない(1098:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。
[自己における矛盾]
要するに、「立場」の上では「同一」なる「自己」において、「矛盾」してしまうのが「真」であるから、そこ「に返って」(1090:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)、自分で「できると思う」ところ「に行くこと」(1082:ibid.)にしよう。
「形式」を「論理」化すると「同一」なのだが「自己」において「矛盾」する(1117:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)。とはいえ、この場合でも、「論理」「自身」は「我々」にも(1109:ibid.)ある。
「我々」においてはたとえ「同一的なる」ことでも、「自己」においては「矛盾」する「と思う」(1101:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)ことが、多くある。たとえば「我々」「から発展した」「文化」は、「東洋」にあるが(1093:ibid.)、「前者」の形式を論理化するという「文化は」、「西洋」に「ある」(1085:ibid.)。
「基礎」における「科学」は、「今日」ではたとえば「それ」「である」「と」いうように、我々には何やら「考えるもの」「がある」(1113:NISHIDA,K. 1944/89,p.298)けれども、そこに「潜んでいる」その「性向」や成功は、なかなか「主観的」なものである(1105:ibid.)。それにも拘わらず、「論理的」になった「文化を」なぜか「西洋」的だ、として「人は」「考えるのである」(1097:NISHIDA,K. 1944/89,p.297)。このように、「根元」において「矛盾」しているのが「自己」だ(1089:ibid.)。
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on Nov.30,2008.