Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&
à Elisabeth,28 juin 1643,
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,
à Mersenne,Amsterdam,18 décembre 1629,
à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630,
à Mersenne,Egmond,4 avril 1648.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
The Trouble from Saying ‘You are mine’.(part 1) for THE MAT MIRROR. (わがままから来た病)研究の終わりを目指して正しく判断しよう 「諸々の研究」には「終わり」が「ある」「にちがいない」、という我々の「気持ち ingenij を導くこと」で(Regul.1:AT.X,359.05)、「堅固で真なる」(ibid.:AT.X,359.05-06)「判断」が「もたらされるは ず」だ(ibid.:AT.X,359.06-07)。
もつれなければ、操作はすぐ終わる というのも、我々が「このために」「要求される」「操作」は「四つのみ」なのであって(Regul.18:AT.X,461.12)、「何か がむやみにもつれる」ことの「ない」ようにすれば(ibid.:AT.X,461.14-15)、これらの操作が「完了される」だろうし、このことは「の ちに」「比較的容易に」「できる」「から」である(ibid.:AT.X,461.15)。
完成したら設計どおりかどうか調べて纏めよう そして、「完成したもの」を「知識」にする際に「適している」のは(Regul.7:AT.X,387.10)、「我々」によって「設定なり 設計なりされたものに関連する」諸々のものを(ibid.:AT.X,387.11)「精査して」(ibid.:AT.X,387.12)「包括するこ と」(ibid.:AT.X,387.13)だ。
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家系は樹木のごとく示される--学問も私を養ってくれた --発明する場合は分岐点が必ずある
--生活に耐えて、発明しよう なるほど「樹木」のようなものが「誰かさんの家系を詳らかにしている」(Regul.14:AT.X,450.20-451.01)が、その 一方で、「私の幼少期から」、しかも「文字」やら人文学やらでもって、「養われてきた」のは、「私」だ(DM.1:AT.VI,4.21)。また、とりわ け「方程式」のような等分をして「発明」する(Regul.20:AT.X,469.02)場合は、「いつでも」「割り算」の如く分岐する「位置」が「あ るだろう」(ibid.:AT.X,469.03-04)。
のみならず、「この生活に留まる」時間が「我々にはある」はずだし、「自分自身で発明して」事物を有用にする「気質」や精神もあるにちがいない(RV.:AT.X,498.02&04-05)。
緊張だらけの生活は、煩わしい しかしながら他方で、「緊張 l'attention」によって「倦怠なり疲弊なりさせられ」てうんざりしたのは、「私の精神」なり気質なりである(à Elisabeth,28 juin 1643:AT.III,693.09-10)。そうした緊張を「要求する」「生活」は「煩わし」いし(ibid.:AT.III,693.10- 11)、そのかぎりにおいて、「私が」「そうした」発明のための時間を「そこで」「用いて」も、「それほど」「有益に」は「できない」(ibid.: AT.III,693.08-09)だろう。
Father's Further with Money. 傲慢な父親は、金銭(かね)とともに去りぬ
宮廷や法廷もどきの世界になじめない私 「ポリアンドル POLIANDRE」も(RV.:AT.X,499.12)「私」も、もし「知らなければ」(RV.:AT.X,499.16)「私の親どもの過誤」なり 誤謬なりを「容赦する」(RV.:AT.X,499.17)かもしれないが、この親どもの「送り込んだ」ところは、少なくとも「とても幼い」「私」にとっ ては(RV.:AT.X,499.19)、ほとんど「宮廷 la Cour」か法廷か(RV.:AT.X,499.19)のようだった。
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守銭奴のまま消えた父親 我々が「自分」たちで「嘲る」のは「けちくさい奴」のこと(PA.§169:AT.XI,458.16)である。すなわち、「おのれの宝につ いて執着したり妬んだりしているときに」も「そいつは il」(ibid.:AT.XI,458.16-17)「そこから決して遠ざからない」が(ibid.:AT.XI,458.18)、その一方で、「それ ほど配慮」されて「守られている」にも拘わらず「その苦労に値しない」のが、「その金銭」なのである(ibid.:AT.XI,458.19-20)。
平穏なのに敢えて警戒する輩
--自分が威張るという目的で家族を従えた 我々や皆(on)が「軽蔑する」のは、「夫」としての男について(PA.§169:AT.XI,458.20)であるが、この夫は「その仕方 で」その妻を「愛さない」ほうが「よい」(ibid.:AT.XI,458.22)。というのも、この夫「自身について、あるいは」その妻について、この 夫の「もっている意見」が「悪い」(ibid.:AT.XI,458.22-23)からである。
そこで「私は云う」 (PA.§169:AT.XI,458.23)。すなわち、この夫は「何もなく」ても、その妻についてみずから挑んでは「警戒する」という「傾向をもつは ず」だ(ibid.:AT.XI,458.25-26)。そして、その夫の「想像する」ことが(ibid.:AT.XI,459.01)「成り立つ」かぎ り、この夫はその妻について「単なる所有 la possession」だけを「もっている」(ibid.:AT.XI,459.01-02)ことになる。
残念ながら、その善に「ふさわしくない」のがその夫「である」(PA.§169:AT.XI,459.03)か、「あるいはともかく」「誠実でない」のがこの人の「妻」なる女「である」(ibid.:AT.XI,459.03-04)。
諸君の世話なんか焼きたくない私
--恐怖を露骨に示すと、却って危ない --身内を警戒する義務ならある
もし「必要な」ことが「ある」としたら(Meteor.10:AT.VI,366.24)、それは、どうやら「あなた」がたを「更に」「世話 する」のが「私」の「はずだ」(ibid.:AT.VI,366.24)、ということらしいが、あいにく「そのことについて」「信ずる」のは「私」では 「ない」(ibid.:AT.VI,366.23)。とはいえ自分でも、それこそ「見張りをつける」くらいに、「もっぱら」気をつけることだけはする「に ちがいない」(RV.:AT.X,503.05)。
「充分に」「知っている」「人々」(Meteor.7:AT.VI,320.29)ならば「懸念すべき」「雪崩」が、谷 のなかには「在る」が(ibid,:AT.VI,320.30-31)、たとえば我々が「咳払いをする」(ibid.:AT.VI,321.01)よう に、みずからの「恐れから」(ibid.:AT.VI,321.01)来る「声」は「騒音」になるのであって、これが「雪山を動かす」のでは「ないか」 (ibid.:AT.VI,321.01-02)。
となると、このように「敵たち」が家や国などの「身内で domestique ある」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,218.11)場合に、我々にとって「義理」なり義務なりが「ある」のは、「絶えず」警戒するべく「自分で見張っているというこ と」(ibid.:AT.IV,218.12-13)であり、これは敵なる「彼らが害してこない」ように(ibid.:AT.IV,218.14)するた めだ。
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酒と煙草で八つ当たり 連中が「嗅ぎ煙草で陶酔させ」ようとしたり、「あるいは」(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,305.10-11)、連中が「ワインのなかに耽溺させ」ようとしたりするものについて、もしそれが、そうした連中自身にとっての 「諸々の不快」だ(ibid.:AT.IV,305.09-10)、ということであれば、「私」が「是認する」のは、そんな連中(ceux)の「粗暴たる こと」なの「かもしれない」(ibid.:AT.IV,305.09)。
罵声は万人に響く 「諸々の発声法に関して」(à Mersenne,Amsterdam,18 décembre 1629:AT.I,103.04)云えば、なるほど「叩いて」くる「もの」をとおして、「我々」は「感覚」するが、「それほど」(ibid.: AT.I,103.05-06)「我々を叩く」「人」(on)「ならば」(ibid.:AT.I,103.07)、その「人」(on)の「放つ」音声は (ibid.:AT.I,103.09)、きっと「あらゆる言語に類似している」(ibid.:AT.I,103.09-10)はずだ。
民衆が隷属するわけないだろう/幼稚な話を聴くほうは苦労する 改めて「云う」と「可笑しな ridicule」ことが「ある」(à Mersenne,Amsterdam,janvier 1630:AT.I,112.21)。すなわち、「まるで民衆が」(ibid.:AT.I,112.23-24)「みずから隷属する」よう「求められてい た」(ibid.:AT.I,112.24-25)かのように云う奴も居る、ということだ。しかし勿論、「このことはとても幼稚であり」(ibid.: AT.I,112.25)、しかもそれを「聴いている」人(on)は、「もっぱら苦労する」だけだ(ibid.:AT.I,112.26-27)。
或る記憶から指図される筋合いのない別の記憶 「真に verò」、そして「一般的に」「観察されるべき」ことが「ある」(Regul.16:AT.X,458.09)。すなわち、そもそも記憶は継続的な注意 を要求してこないはずなのであって、したがって、そういう記憶から「いつでも委任や指令をされうる」ような「記憶」は、「何もない」ので「ある」 (ibid.:AT.X,458.09-10)。なるほど「我々の気持ち」は、「対象化された」り「表象されて再現された」りするが、とはいえ、そのうち の「何らかの部分を」「認識に」おいて、「余計な想い出が」「さっぱりと」「かっさらうはず」は「ない」(ibid.:AT.X,458.12-13)。
考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される ここで「私は告白して」おき「たい」(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.30)。すなわち、「考察」され「ない」と「そうした精神なり気質なり」が「邪悪」になる(ibid.:AT.V, 142.31)、ということだ。「なお」「私」が「たぶん peutestre」「いつの日か quelque jour」「おこなう」かもしれない「こと」でもって(ibid.:AT.V,143.02-03)、「そういう怪物たちが」「打倒されたり貶められた り」するが、このことで「充分で」「あるはず」だ(ibid.:AT.V,143.03)。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES.初出:"What a cool believes"(blog),Nov.10,2006.