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2009年1月10日

The Trouble from Saying‘You are mine'.(Part 2)--再公開

DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Hom.:(Le Monde-)l'Homme.(AT.XI)(『人間論』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
PP.:Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
Praef.:Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
&à Elisabeth,juin 1645,
à Elisabeth,Egmond,18 août 1645,
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,janvier 1646,
à Elisabeth,La Haye,mars 1647,
à Mersenne,Egmond,4 avril 1648.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

The Trouble from Saying ‘You are mine’.(part 2)
for THE MAT MIRROR.

論争/財産分与--人情の町で、危うく刃傷沙汰に...


言葉尻をあげつらうだけでは役に立たない
さて、人々に「関して」云えば(Praef.:AT.VII,9.28)、「ただ一字一句だけ」を(ibid.:AT.VII,9.30) 「論うことに」かまけているうちに(ibid.:AT.VII,10.01)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう (ibid.:AT.VII,10.02-04)が、そのようにして「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」よう なことは「容易には」起こらないだろう(ibid.:AT.VII,10.04-05)。

逃した財運は誰の手に?
「当代」百年間に臨んで「眺める」ような「慎重さ」である、という「この」こと「に関して」(à Elisabeth,Egmond,janvier 1646:AT.IV,352.09)、「そうした」財運の「周囲に皆が留まっている」にも拘わらず(ibid.:AT.IV,352.11)「その」家 から「そうした」財運がいわば「失踪していた estre fugitive」場合(ibid.:AT.IV,352.13)、その家の人々は「そうした」財運を「見いだすことができる」「かどうか」 (ibid.:AT.IV,352.15-16)。たとえそのうちの「皆」では「ない」とはいえ(ibid.:AT.IV,352.15-16)、誰かが 「そうした」財運に「遭遇する」(ibid.:AT.IV,352.16)はずだ。

何も無駄にしない人は悪くない
「どんな」ものからでも「同じように」「何らかの利益を引き当てることのできる」者に「悪はない」のであって、この人は「よい感じ」がしてい る、と「私は信じる」(à Elisabeth,juin 1645:AT.IV,237.21&23-24)。
*****

物体よりも神--不完全なものはいつか分離する
「多くのものが在る」のは「もちろん」のことだが(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.24)、「我々が差し押さえる deprehendimus」「にも拘わらず」それらは「何だか」「不完全」で、「あるいは」「限界」づけられている(ibid.:AT.VIII-i, 13.25-26)ところからすると、それらに「含まれている」ものは「分割や分離をされうる」(ibid.:AT.VIII-i,13.28-29)。 「確実」に「存在する」のは(ibid.:AT.VIII-i,13.29)、「神であって」、決して「物体」でも身体でも「ない」(ibid.: AT.VIII-i,13.30)。

命拾いして満足

過去のものでも、偶然によって感じてしまう
「このようにして」「思惟されて」いるなかで「何度か」「戻って」蘇る「諸々の事物」は「過去の」もの(Hom.:AT.XI,184.17 -18)だが、「なんと」「偶然によって」(Hom.:AT.XI,184.19)、どんな対象が「触れて」きても、諸々に「感覚」されて(Hom.: AT.XI,184.20)しまう。

知解する我々は、残念ながら感覚してしまう/
悪を欲せずすべてをひたすら知解するのは神だ
このように、いくら「完全」な「何か」が「ある」とはいえ、「我々において」は(PP.1 §23:AT.VIII-i,13.30-31)、「やはり tamen」それは「受動になった」ら、「あらゆる感覚に」(ibid.:AT.VIII-i,13.31-14.01)なるのであって、「単に tantum-」「知解する」という「様態だけで modo」は(ibid.:AT.VIII-i,14.02-03)「ない」(ibid.:AT.VIII-i,14.03)。
一方、神「自身」は(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.03)、「常に同一」で(ibid.:AT.VIII-i,14.05)「能動 actionem」的(ibid.:AT.VIII-i,14.05)であり、「あらゆるものを同時に知解するはず」だ(ibid.:AT.VIII- i,14.05-06)。但し、「あらゆるもの」(PP.1 §23:AT.VIII-i,14.06)とはいえ、「なるほど enim」「過ちとか罪とかになった邪悪」を「欲し」「ない」(ibid.:AT.VIII-i,14.07)のが、神である。

疑惑も執着もなしに悪を避けるのが正当だ
となると、嫉妬とか羨望とか執着心とかいう「この情念」「そのもの」が「戻らない」場合(PA.§169:AT.XI,459.04- 05)、「諸々の疑惑」だけで(ibid.:AT.XI,459.05)「執着」や嫉妬を「しているということが」、「そもそも」「ない」のであって、そ こで、何らかの悪を努めて避けることになるの「である」(ibid.:AT.XI,459.05-06)。「そのとき」には、何らかの悪を「懸念する」と いう「主題をもっている」人(on)が「正当な」のだ(ibid.:AT.XI,459.07-08)。

幾何学で黙らせよう、妨げよう
「幾何学がある」うえに、「私」が(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.24)「妨げる」かぎり(ibid.:AT.V,142.25)、少なくともロブやその同類たちは(le Rob.& ses semblables)「混乱」するし、この連中が中傷できないという「そのことは」、「変わる」ことも「ない」(ibid.:AT.V, 142.26)。

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取り越し苦労で済んでよかった
なるほど、「私は」「落ち着いて」「省察」して(Med.1:AT.VII,23.04)いるし、「偽なるものには、私は同意しないつもり で」(ibid.:AT.VII,23.06-07)いるし、「私」をひっかける者(Med.1:AT.VII,23.07)に対して、「私は用心して」 (ibid.:AT.VII,23.08-09)いるが、このようにして「私に気配りしてきた」のが「私」である(ibid.:AT.VII, 18.01)からこそ、「慎重になりながら」ではあったものの、「私の費やす」(ibid.:AT.VII,17.12-13)「暇」は「安泰」だった (ibid.:AT.VII,18.01)。

健康なときも、完全な者に甘えよう
そのなかで、エリザベト殿下の場合に限らず、「健康を有する」ことで「完全」になったのは「今」の「あなた」であるが、「その」こと「につい て」は(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15-625.01)、「完全たること」を「対象」として「愛」するというのが「真な」の「である」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.26-27)。

真は神に在り
「今」「見ていること」は、「何らかの途」として、「私には見える」が(Med.4:AT.VII,53.18)、この途「をとおして」、 「真なる」「神」について、「御存じの」とおり「観想」したり瞑想したりすること「から」(Med.4:AT.VII,53.19)「他の事物」を「認 識」する「ほうへ」、この途は「到着されるはず」だ(Med.4:AT.VII,53.21-22)。

信じれば満たされる
「対象のみをめぐって」「そうした」対象(Regul.2:AT.X,362.02)「についての」「認識」が「確実で疑いえない」となれば (ibid.:AT.X,362.02-03)、「我々の気持ちは充足すると思われる」(ibid.:AT.X,362.03-04)。

満足--やはり、いい感じ
「これ」こそ(PA.§1:AT.XI,327.11)、「よい感じ」(DM.1:AT.VI,1.17)のする「情念」(PA.§1:AT.XI,327.12)だ。

物体や身体に依存しようがしまいが、充たされるのはいつも心だけ
「とにかく諸々の充足が有る」が(à Elisabeth,Egmond,18 août 1645:AT.IV,277.17-18)、それらは、「身体なり物体なりに依存する」(ibid.:AT.IV,277.18)場合であれ、あるいは 「少しも」身体や物体に「依存しない」(ibid.:AT.IV,277.19)場合であれ、いずれにせよ「精神なり気質なりのなかだけ」(ibid.: AT.IV,277.20)にある。
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完全たることそのものは劣らずに我々によって知解される
「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のが「いかに」完全で「ない」とはいえ(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)、完全たること「そのもの」は「何も劣らない」ので、それを「明晰に且つ判明に」(ibid.: AT.VIII-i,12.14-15)「我々は知解することができる」(ibid.:AT.VIII-i,12.16)。

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初出:"What a cool believes"(blog),Nov.10,2006.