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2009年1月10日

The Trouble from Saying‘You are mine'.(Part 3)--再公開

DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650,
à Chanut,Egmond,31 mars 1649,
à Elisabeth,Egmond,mai ou juin 1645,
à Mersenne,Egmond,4 avril 1648.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.


The Trouble from Saying‘You are mine’.(part 3)
for THE MAT MIRROR.

傲慢な空気は雪崩の後も...
「同じ仕方で」「私が自分で想い起こす」のは(Meteor.7:AT.VI,316.15)、「かつてアルプスのなかで見た」ことのある (ibid.:AT.VI,316.16)ものであり、「空気」なり雰囲気なりが「動揺」して「最も劣った」まま「充たして」傲慢になって「いた」 (ibid.:AT.VI,316.18-19)のだが、「それは私にとってはどうやら」(ibid.:AT.VI,316.20)、雪崩が「かなりよく 模倣していた」という、あの「轟きという騒音」(ibid.:AT.VI,316.21-22)であるらしい。

Mother Starts to Gather Money.
自惚れた母親は、
金銭(かね)の向くまま、気の向くまま...

守銭奴に化けた母親
「けちくさい奴を嘲る」人「みずから」(PA.§169:AT.XI,458.16)にとっては、なるほど「苦労に値する」とはいえ、「それ ほど配慮」されて「守られている」わけでは「ない」のが、「金銭」なのである(ibid.:AT.XI,458.19-20)。

人を道具にして善を愛する輩
--家族を大事にしようとする自分が大好き
我々や皆(on)が「軽蔑する」ところによれば、「夫」としての男に(PA.§169:AT.XI,458.20)「証拠」が「一つ」「あっ て」、「それ」は(ibid.:AT.XI,458.21-22)すなわち、この夫「自身について、あるいは」その妻について、この夫の「もっている」の が「悪い意見」だ(ibid.:AT.XI,458.22-23)、ということである。
ここで「云う」のは「私」だが (PA.§169:AT.XI,458.23)、この夫がその妻「に対してもっていた」「愛というもの une Amour」は、はたして「真な」の「かどうか」(ibid.:AT.XI,458.24-25)。この夫が愛するのは「そもそも proprement」この妻では「ない」の「である」(ibid.:AT.XI,458.26)。が、そこに「存在する」のが「もっぱらその善のみ」と して、その夫によって想像されて(ibid.:AT.XI,459.01)「成り立つ」かぎり、この夫がその妻について「もっている」のは「単なる所有 la possession」だけになる(ibid.:AT.XI,459.01-02)。
「もし」そうでは「ない」とこの夫が「判断していた」ならば(PA.§169:AT.XI,459.03)「あるいはともかく」、「誠実でない」のはこの人の「妻」なる女のほう「である」(ibid.:AT.XI,459.03-04)。

家畜としても役立たず(?)な私
まず、「私」の「最も嫌悪した」「こと」(à Chanut,Egmond,31 mars 1649:AT.V,328.29)を「私が主題化して」「信じる」(ibid.:AT.V,329.01-02)ところによれば、べつに「ゾウやヒョウ のような」(ibid.:AT.V,329.03)「事物」「として」は「少しも」「有益で」は「ない」が、「そこに」は「何か」が「ある」 (ibid.:AT.V,329.04-05)、ということだが、ここで、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」 (Med.1:AT.VII,21.01-02)によれば、神によって「このように」(ibid.:AT.VII,21.02)いつも欺かれて誤るべく 「創造されたもの」が「私である」(ibid.:AT.VII,21.03)という。

*****
時々欺かれて誤るのは「私」のほうだが、それを容赦している神は、「最終的に」は善である(Med.1:AT.VII,21.15-16)。

親からもらったのは体質だけ/学問も、私を養ってくれた
べつに「咳」が「乾いて」いるわけでもなく、また「生彩のない」顔「色」をしていたわけでもないのだが、「私」が自分の母親から「継承した」 ものを、「20歳以上という年齢まで」抱え込んできたのが「私」だ(à Elisabeth,Egmond,mai ou juin 1645:AT.IV,221.01-03)。しかしその一方で、そんな「私の幼少期から」、「文字」やら人文学やらでもって、「養われてきた」のも、 「私」だ(DM.1:AT.VI,4.21)。

よそはよそ、うちはうち、で二十年
「私」には「想像する」ことが「何もない」(à Chanut,Egmond,31 mars 1649:AT.V,329.06)とはいっても、それはあくまでも「あなたの居る」ところ(ibid.:AT.V,329.06)についてなのであっ て、いわば旅行に匹敵することを「20年来」「した」「私」には(ibid.:AT.V,329.07-08)、「もはや」何も「残っていない」 (ibid.:AT.V,329.08-09)。そんな「私」が(ibid.:AT.V,329.08)「道において」「出くわすこと」になる「盗賊なり 剽窃者なり」とか(ibid.:AT.V,329.09-10)難破とかは、「私」から「生命を」「取り去る」(ibid.:AT.V,329.10- 11)だろう。

家庭の包容力は、なかなか乏しい/母なる海なんて、所詮...
「ついに」「私が云うことのできる」のは、これ「以外に何もない」(Meteor.7:AT.VI,315.23)。すなわち、それを大きな 海として「見たことが一度もない」のは「私」であり(ibid.:AT.VI,315.25)、しかもそうした海のようなものについて「私がもっている」 のは、あいにく「ひどく不完全な関係とか連絡とか陳述とか des relations しかない」(ibid.:AT.VI,315.25-26)、ということだ。

もはやここで休めないのが私だ
「私の要素 mon element」となるべき拠点とかなわばりとかを「ここに」して「居る」のは、もはや「私」では「ない」(à Brégy,Stockholm,15 janvier 1650:AT.V,467.19-20)のであって、なるほど安静にしたり休止したりするのは「善いこと」「である」が(ibid.:AT.V, 467.21)、そうした善いことを「知らずに自分たち自身で取っている」連中がいる(ibid.:AT.V,467.22-23)。なるほど「私」がた いてい「睡眠中に偲ぶ」もの「すべて」を「同じく」(Med.1:AT.VII,19.09)「そうした人々は目覚めていながら」(Med.1: AT.VII,19.10-11)偲ぶ。とはいえ、やはり「私」も「ここに居て」(Med.1:AT.VII,19.11)、「炉辺に座っていて」 (Med.1:AT.VII,19.12)、「私の揺らしているこの頭」は、「まどろんでいない」(Med.1:AT.VII,19.15)...。

*****

考察されない精神は腐る/将来の私がおこなうことで怪物は打倒される
ここでもう一度「私は告白して」おき「たい」(à Mersenne,Egmond,4 avril 1648:AT.V,142.30)。すなわち、「考察」され「ない」と「そうした精神なり気質なり」が「邪悪」になる(ibid.:AT.V, 142.31)、ということだ。「なお」「私」が「たぶん peutestre」「いつの日か quelque jour」「おこなう」かもしれない「こと」でもって(ibid.:AT.V,143.02-03)、「そういう怪物たちが」「打倒されたり貶められた り」するが、このことで「充分で」「あるはず」だ(ibid.:AT.V,143.03)。

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初出:"What a cool believes"(blog),Nov.10,2006.