avec Burman:Descartes et Burman.(AT.V)(『ビュルマンとの対話』)
DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
Monde-Lum.:Le Monde-Traité de la Lumiere.(AT.XI)(『世界論/光論』)
PA.:Passions de l'Ame.(AT.XI)(『情念論』)
PP.:Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
&
à Elisabeth,juin 1645,
à Elisabeth,Egmond,4 août 1645,
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645,
à Elisabeth,mai 1646,
à Elisabeth,novembre 1646,
à Elisabeth,La Haye,mars 1647,
à Pollot?,1648?.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
The Trouble from Saying‘You are mine’. (part 4)
for THE MAT MIRROR. 備えて行動すれば誇らしい
運動の原因を探すのに立ち止まらないのが私だが、 運動そのものは主題をごまかせない なるほど「私が、私自身を停止させる」こと「なく」(Monde-Lum.3:AT.XI,11.13)「探求する」のは、「それらの」様々 な「運動」の「原因」だが(ibid.:AT.XI,11.13-14)、この原因が「おのずと動き始めた」ら(ibid.:AT.XI,11.14- 15)、「私の理性やら根拠やらでもって」(ibid.:AT.XI,11.16-17)諸々の運動が「主題を」それ「以外に」「換えて」「別様に autrement」するということになり、これは「まさしく」ありえ「ない」ことだ(ibid.:AT.XI,11.18-19)。
死に備えよう 「反対に」「何らかの力」をもっていようが、「あるいは何か健全」であろうが、「とにかく」(à Pollot?,1648?:AT.V,557.29)「我々はやはり備えて」覚悟して「いるにちがいない」(ibid.:AT.V,557.30)。何 しろ、「いつ」でもやって「来る」のが死で「あろう」(ibid.:AT.V,557.31)し、また、我々の行動は、いかに能動的になっても、死を「許 容できない」どころか、むしろその死の「原因になって」「いるはず」なのだ(ibid.:AT.V,558.02-03)。
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絶対に善いものは何? ところで、「善と名付け」られて「絶対的に」なりうる(à Elisabeth,juin 1645:AT.IV,237.22-23)「何らかの」ものを「題材」として「私」が「選んで」みて「考えた」ところ、それは「自分にとって」「容易」 だった(DM.6:AT.VI,75.14-15)。
忠告で縛られても運を取り戻せ まず、「最良の忠告」によって「頻繁に」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,412.12-13)「拘束され」た者に「在る」(ibid.:AT.IV,412.14)のが、「‘運’」なのだ(ibid.: AT.IV,412.15)。そしてそのように「私が敢えて信じる」(à Elisabeth,novembre 1646:AT.IV,529.18)のも、「‘運’をみずから取り戻すこと」で、その運を「比較的好都合な」ものにする「ため」だ(ibid.: AT.IV,529.19-20)。
指図されなくても自分で行動したい 「私が少しも疑わない」(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,412.05)かぎり、「殿下」エリザベトに限らず、「あなたがた」が「提示している」「それら」の格率(maximes)は (ibid.:AT.IV,412.06,cf.412.04)「比較的よい」ものに「値する」(ibid.:AT.IV,412.07)のであって、 「経験」なり実験なり「に基づいて」(ibid.:AT.IV,412.08)「推論できる」や否や「完全に」なる「人格」を備えた(ibid.: AT.IV,412.09-10)人々が「おこなう」「こと」「だろう」が(ibid.:AT.IV,412.11)、それについては、そもそも、そうし た人々がみずから「おこなうはず」のことなの「かもしれない」(ibid.:AT.IV,412.12)。
自分で祈ったからこそ神に導かれた はたして「それが唯一である」(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,316.10)かどうかはともかく、あたかも「欲した」のが神である(ibid.:AT.IV,316.11)かのように「獲得さ れている」のは、あくまで「我々の祈りによる」のだ(ibid.:AT.IV,316.11-12)。
事物で満足させるのは難しい ところで「最も困難な」のは、情念以外の「他の事物すべてにおいて」「人々を満足させること」(DM.1:AT.VI,1.18-2.02) なのであって、情念のほうは「あまり困難ではないように思われる」(PA.§1:AT.XI,327.13-14)。
何よりもまず、神が居る 「いかにも un」「神が在るということ」は、「それらの」事物の「うちで」「第一」に「原理的」「である」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,291.20-21)。
欲のほかに悲しみは?--明晰な経験が現れると情念になる 必ずしも「欲望の類い」の「すべて」(à Elisabeth,Egmond,4 août 1645:AT.IV,266.22)では「ない」とはいえ、それらの欲望「以外に有る il y a que」(ibid.:AT.IV,266.23)「悲しみから」(ibid.:AT.IV,266.24)、「これが」「最も困難」だ、ということは 「詳らかになった」(avec Burman:AT.V,163.24)。「ここ」に「それほどに明晰な」経験が「在る」(ibid.:AT.V,163.25)。そして、あの経験「が 現れる」と、「諸々の情念などに」なる(ibid.:AT.V,163.25-26)。
誇らしいから好き勝手に書いた 「経験」なり実験なりをとおして(à Elisabeth,mai 1646:AT.IV,407.02)、「誇り」とか栄誉とかを「数に」入れて「置いて」「情念」として感受するということ「について」は(ibid.: AT.IV,407.02-03)、「判断を」「好都合」に「見ながら」(ibid.:AT.IV,407.04-05)「それについて書いた」のが 「私」だ(ibid.:AT.IV,407.06)。
その「私が称賛する」のは、「神」である(à Elisabeth,La Haye,mars 1647:AT.IV,624.15)。
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いくら不完全な我々でも、完全さそのものくらいは知解できる 「なるほど」「我々の捉える comprehendamus」のが「いかに」完全で「ない」とはいえ(PP.1 §19:AT.VIII-i,12.12-13)、完全たること「そのもの」は「何も劣らない」ので、それを「明晰に且つ判明に」(ibid.: AT.VIII-i,12.14-15)「我々は知解することができる」(ibid.:AT.VIII-i,12.16)。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES.初出:"What a cool believes"(blog),Nov.10,2006.