DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
LA.-Trad.:Lettre de l'autheur a celuy qui a traduit le livre.(AT.IX-ii)(『仏訳者への書簡』)
Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
Meteor.:Les Meteores.(AT.VI)(『気象学』)
Praef.:Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
Regul.:Regulae ad Directionem Ingenii.(AT.X)(『精神指導の規則』)
RV.:Recherche de la Verite.(AT.X)(『真理の探究』)
&
à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645,
à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
The Trouble from Saying ‘You are mine’.(part 5) for THE MAT MIRROR. This Prism May Be Like A Prison. 「あのとき」「既に砕かれている」せいもあって、「その」「牢獄」のようなものは「小さい」(Meteor.3:AT.VI,262.20-21)。
いつも広い心で...
親や国だけに善いことをするな 我々自身が「もっぱら」「自分の両親に、あるいは自分の国に」対してだけ、「善を」「削りだす procurer」のは、「小さい」(à Elisabeth,Egmond,15 septembre 1645:AT.IV,293.15-16)ことだ。
偉大な魂は善かれ悪しかれ最大 むしろ「美徳も悪徳も」「同じく」「最大にできる」「魂」こそが、「最も偉大である」ことになろう(DM.1:AT.VI,2.14-15)。
皆から依存されても、決して偽でないのが神である 但し、「神の存在すること」が知覚というより「知得される」のが「いかに後で」あったか(Med.5:AT.VII,70.10)はともか く、「その」神「に依存している」のは、神「以外のあらゆるもの」なのである(Med.5:AT.VII,70.11)。その一方で「偽なる」ことの「な い」のが、「そうした」神「である」(Med.5:AT.VII,70.11-12)。
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「しかしながら」、「神という」「観念」も「魂という」観念も、「決して」「感覚に」は「ならなかった」、ということは「確実である」(DM.4:AT.VI,37.12-14)。
もう誰にも騙されない 「結局」、「旧来真なるものと私が考えていた」からといって、なにもそれを「私が余儀なく認容する」ことは「ない」のだ(Med.1:AT.VII,21.27-28)。
しかも、「私の根拠」を「知解」すれば(Praef.:AT.VII,9.03)、「真で堅固な」(ibid.:AT.VII,9.06) 「反駁」を、諸々の意見に対して(ibid.:AT.VII,9.07)おこなうことができる。そして、これらのことは、「私」をひっかける者が「いかに 巧みで」も(Med.1:AT.VII,23.08)「異なることがない」(Med.1:AT.VII,23.11)。
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非常事態でも充たされる人がもつ理性 「真なる教え」というのは(à Elisabeth,Egmond,6 octobre 1645:AT.IV,315.07)、「諸々の事件」や不測の事態「のうちでさえも」(ibid.:AT.IV,315.08)「常に充足しているこ と」の「できる」人(on)にこそ(ibid.:AT.IV,315.09-10)、「備わって」いるのであって、そういう人(on)が「知っている」の は、「理性を使用すること」だ(ibid.:AT.IV,315.10)。
事物を発見できる機会が増える/幾何学 また、「‘幾何学’をとおして」「私が主張していた」(LA.-Trad.:AT.IX,15.27-28)ところによれば、「発見できる事 物はほかにもなお数々」ある、と「信じる」者に「機会を与える」べく用いられる(ibid.:AT.IX,15.29-31)のがそれだ、ということであ る。
小説のように読むべし--説明しなくてもできる人 「私が望む vouloir」のは(LA.-Trad.:AT.IX-ii,11.30)、この書物の「全体」を「一瞥していた」人が「まずは」その「すべて」を「小 説の如く」(ibid.:AT.IX-ii,11.30-31)「もっぱら大まかに知ることだけ」なのであって(ibid.:AT.IX-ii, 12.02-03)、「私」が「取り扱った」諸々の題材は(ibid.:AT.IX-ii,12.03)、なるほど「原理的」で「ある」が、「これらの ‘原理’」の「成果」は「最後」(ibid.:AT.IX-ii,18.16-17)になる「だろう」から、「できる」人(on)(ibid.: AT.IX-ii,18.17)ならば、「私が少しも説明した」ことの「ない」真理を幾つも(ibid.:AT.IX-ii,18.18-19)用いて、 「昇る」ので、この人は(on)「比較的」「程度」が「高く」て「賢明」な(ibid.:AT.IX-ii,18.21-22)はずだ。
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当時の説明は、あまり詳しくなかった 「しかし」人々に「関して」云えば(Praef.:AT.VII,9.28)、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うち は(ibid.:AT.VII,9.29-30)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはならないだろう(ibid.: AT.VII,10.01-02)。
興味本位なだけの奴らは助けてくれない それどころか、わざわざ「ユードクス」(RV.:AT.X,508.10)に云わせるまでもないことだが、「あなた」がたは、「妨害」やら支 障やら障害やらを「第一」に発見どころか「暴露する」際に、「強かによく」もまあ、「比喩」でもって対比させる(RV.:AT.X,508.10-11) ばかりだ。そこで、「あなた」がたが「付け加え」てい「ない」ような「手段」でもって(RV.:AT.X,508.11-12)、そうした妨害などから 「みずからを守る」(RV.:AT.X,508.12-13)のが我々だ。
討論にならないことが主題になる/続けて読もう 前述の「そのことのあとに」「見いだす」人(on)が、「もし」(LA.-Trad.:AT.IX-ii,12.04)「好奇心をもって」そ れらの題材についての「原因を認識する」場合(ibid.:AT.IX-ii,12.05-06)、その人が「指摘する」のは、あくまで「理由」を連ねて 「列」にする「私」に関してなのであって(ibid.:AT.IX-ii,12.06-07)、「もし」「そうした」列を「充分に認識すること」の「でき ない」人(on)の場合は、「どこからでも」(ibid.:AT.IX-ii,12.08-09)「筆で線引き」をして、そうした「箇所」を「もっぱら」 「特徴づけるにちがいない」(ibid.:AT.IX-ii,12.09-10)。
が、いずれにせよ、「続けて」「読むこと」で(LA.-Trad.:AT.IX-ii,12.11)「終わり」にする 「まで」には(ibid.:AT.IX-ii,12.12)、きっと、「諸々の真理」が(ibid.:AT.IX-ii,18.09)「討論 dispute から」「除去する」ものは、「すべて」「主題」になる「だろう」し(ibid.:AT.IX-ii,18.10-11)、「和合 la concorde」も(ibid.:AT.IX-ii,18.12)するだろう、ということである。「反対に」(ibid.:AT.IX-ii, 18.12)、学校での諸々の論争が「戻って」きているのに「感じえないほど」の「人々」は(ibid.:AT.IX-ii,18.13)、「比較的辛辣 で、しかも比較的片意地なのである」(ibid.:AT.IX-ii,18.14)が、そこから異端になったり決裂したりするものが、「世間に」対して 「今」「はたらきかけている」(ibid.:AT.IX-ii,18.16)。
私にとって論争は不便だ/いかに短く説明するか 「なるほど」、「私が切に望む」かぎり(Regul.12:AT.X,411.24)、「それら」の論争から「私が断言したり主張したりす る」ことは「何もない」「だろう」(ibid.:AT.X,411.24)。しかしその一方で、理性に「納得させること」の「できる」「他の」ものを「見 積もる」のも、「また」「私」だ(ibid.:AT.X,412.01-02)。では、「どうすれば」「最も短く」「私は説明することができるだろう」か (ibid.:AT.X,412.03-04)。きっとそれは「私」によって「設定されたもの」「に対して」も「きわめて有用な」「はずである」 (ibid.:AT.X,412.06)。
produced by K.-m. as the SHYNAMITES.初出:"What a cool believes"(blog),Nov.10,2006.