MARION 2006-SR:
"Entretiens avec Jean-Luc Marion",pp.2-13,
《Documents of the Pilot Project: Ideas and Practice of Philosophical Education and Educating Philosophy》,
by K.MURAKAMI(H.I.),I.YAMAGUCHI,T.NAGASHIMA,H.KAWAMOTO,S.NAKAZATO,T.SAGARA and S.NAGAI,
Scientific Reserch (A)(2) 14201001,Grant-in-Aid for Scientific Reserch Japan Society for the Promotion of Science,
Tokyo, Feb.2006.
(Not for Sale)
参考文献(邦訳)
黒田 昭信 訳「ジャン・リュック・マリオンとのインタビュー」、東洋大学哲学科 編『哲学の現場、そして教育--世界の哲学者に聞く--』所収、知泉書館、2007、pp.103-121
Special THNX 2:原文を提供してくださった方、および、例の界隈で呟いていた皆様
* 要するに、科研費の成果を再利用することでもって、税金の事後的有効活用(節税)と、当方の研究開発制作費の削減(節約)とを狙ったのが、この拙作である。
"Entretiens avec Jean-Luc Marion",pp.2-13,
《Documents of the Pilot Project: Ideas and Practice of Philosophical Education and Educating Philosophy》,
by K.MURAKAMI(H.I.),I.YAMAGUCHI,T.NAGASHIMA,H.KAWAMOTO,S.NAKAZATO,T.SAGARA and S.NAGAI,
Scientific Reserch (A)(2) 14201001,Grant-in-Aid for Scientific Reserch Japan Society for the Promotion of Science,
Tokyo, Feb.2006.
(Not for Sale)
参考文献(邦訳)
黒田 昭信 訳「ジャン・リュック・マリオンとのインタビュー」、東洋大学哲学科 編『哲学の現場、そして教育--世界の哲学者に聞く--』所収、知泉書館、2007、pp.103-121
Special THNX 2:原文を提供してくださった方、および、例の界隈で呟いていた皆様
* 要するに、科研費の成果を再利用することでもって、税金の事後的有効活用(節税)と、当方の研究開発制作費の削減(節約)とを狙ったのが、この拙作である。
JLM2006SR
Less Academic, More Shynamic/MOINS ACADEMIQUEMENT, PLUS CHAISNAMIQUEMENT
(Part 1)
[哲学教員なんて、こんなものさ]
「まったくもう tout de me^me」、せっかく「真剣な理由を携えて pour des raison se`rieuses」その場に「居る」にも拘わらず、「そうした」理由を「自身」でも「よく知らない」というのが、「学生」になっているというのだから......、ましてや「教員や指導者」の側が「そんな」理由を、「知る」わけ「ない」だろう(MARION 2006-SR,p.13)......。
そりゃぁ皆さんね、「立派な理由でこの場に来ている」くらいなのだから、きっと「御自身の社会的な経歴を」「或る意味で」「犠牲」に「して」、たとえば「哲学」なんぞを「研究しに来ている」のだろう(ibid.)。で、「そういう連中」ってのは、「僕が考える」かぎり、御自分たちを「魅きつける」ような「真理だか真たることだかに a` la ve`rite`」きっと「お近づき l'acce`s」になりたいんだろうね(ibid.)。
ただ「それ」がさぁ、べつに「数年間」の「下積み」をした「ヘーゲル」のことを「習得するためにこの場に来ている」わけでは「ない」、っていうんだから(ibid.)。そりゃぁ連中が「そう」やってヘーゲルそっちのけで真たることを求めたい、とみずから「望んでいる」とはいえ、「いくら何でもちょっと、ねぇ......まぁ、たとえそんなのでも、やはり quand me^me」敢えて「哲学へ赴くべく選ぶ」という「連中」が来てくれた「際に」は、「もう、それならそれで、いいよ c'est de`ja` bien」、既に御自分で選んだことだから僕は構わないよ、ということにしてますよ(ibid.)、ええ。僕が「認識」してるかぎりのことを知識(des connaissances)として「伝えること transmittre」くらいは致しますよ(ibid.)。「いつも」「こんな」事態なんてことは、さすがに「ありえない」けど、「もし運が悪ければ malheureusement」、「少しは」「こういう」対処も「していかねばならない」よね、「まったくもう tout de me^me」......(ibid.)。
ま、「哲学の教員や指導者」というのは、「結果としては」これで「いい」んだけどね(ibid.)。「僕が思う」に、「何らかの事柄に」仕えたり使えたりして「お役に立てた」のは、あくまで「僕」なんだよ、って「当時」の「僕自身に」、「僕が云って」やることくらいは「できた」んだからね(ibid.)。
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[云ってることと遣ってることが、全然違うぞ、こらっ]
「当時」から「こんな経験を積んできた」「僕」ですが、そんな僕でも「ツイていた」のは、やはり、既に「御自分の領域のなかで最も優秀な方々」というのが「よそから」「頻繁に」哲学界へ「いらっしゃる」、ということですかね(ibid.)。
「このように」優秀な人が来てくれるのは、「とてもよい」ことですよ(ibid.)。しかも、「哲学を」「指導したり教えたりする」わけでも「なく」、またみずから所謂「哲学者になる」ことも「ない」、というような方々が「大勢」、ここで「哲学の学生」になってくれるのですよ(ibid.)。で、その哲学の学生たちの「あいだで」「なく」ても、「どこだろうが構わない ou`」けど、「政界 dans la politique」やら「出版界 dan la l'e`dition」やら「実業界 dans la business」やらに「居る」「人々と」「僕が」「何度も a` plusieurs reprises」直面した「事柄」ってのが、「何か」「ある」んですよ(ibid.)。「それ」が、......《まず「この職業を私がしている」ということがあって、それだからこそ(pour cela)、どうにか「私はすべて捉えた」ようなものでして......、そういえば、「然々と仰ったのは」、たしか「あなた」でしたよね、「十年前に有った」「授業をして下さったのは、たしか「あなた」ですよね、まさか「私のことについて」「あなたは」「御自分で想い出せない」とでもいうのですか?》......とか何とかいうものでした(ibid.)。
こういうことを「我々に云ってくる」ような「人におのずと遭遇する」ということですね、こういう事態は「誰にでも on」あるでしょうが、そんな場合に我々としては「とても驚く」わけですよ(ibid.)。
で、誰のこととは云いませんが、「こんな経験を時々している」くせに、いざ「教える」となると、「いつ」の間にやら、あの、言動の著しい不一致を指摘された経験を「棄て」てしまいながら、「授けて」いくようですが、そうやって授けられたものにたとえ「何か基礎的な事柄」が「ある」にせよ、それを敢えて「拾いだそう trouvera」なんてことは誰も「一度も」し「ない」か「二度と re-」しないか、でしょうね(ibid.)。
以前に言動の著しい不一致を指摘されたくせにそれをすっかり忘れたという、そんな輩の「授けて」くれたものなんかを「脇に逸らして」別の「事柄を何か捉える」ような人々ならば、居る「かもしれない」ですね(ibid.)。何せ、「誰かの云うこと」を「捉える」、ということについては「とてもよく」「できる」「人々」だから(ibid.)。
そんな「人々」が「捉えていること」について、「可能なかぎりで」誰かしらが「うまい」ことを「云って」いくんだろうけどね(ibid.)。ただ、べつに誰のこととは云いませんが、何やら「云うこと」だけは「できる」くせして、おのれの「しでかすこと」については御自分でもろくに「知らない」、というのが「真実で」しょう(ibid.)。
「ですからね Alors」、「その点に la`」ついては「あなたがたも御存じ vous savez」でしょうが、たとえば誰かが「いつ」「哲学を教える」にせよ、学生さん一人くらいは、そういう言動の著しい不一致を「もう決して忘れないでしょう」ね(ibid.)。
「よく見ている」人(on)が居るもので、「いつ」だったか、そういう言動の不一致を「たった一発で捉えた」んですよ(op.cit.,pp.12-13)。「そして」言動不一致については、さすがに「実際の場面では en fait」「まだ事実にしたこともなったこともない」という「その学生さん」も、「議論を捉える」くらいのことはしていますよ(op.cit.,p.12)。
per4med by K.-m. as the SHYNAMITES(La Chaisnamite),2010.