最近、(とくに長文のHPMLの)制作および執筆が滞っており、申し訳ございませぬ。
そのお詫び......になるかどうかは判りませんが、先日、「第9回プラトン・シンポジウム市民公開講座」に潜入したので、
そこから影響を受けた結果でも申し上げようと思います。
(いわゆる報告の類いではございませんので、御了承願います。)
とはいえ、当方はろくに準備もせぬまま、単に無料で一般人でも入れるからという理由と、地理的な都合だけで、参加しました。
一応は、直前に藤沢令夫訳の『国家』(上・下巻)を入手したものの、当然ながら本文で早くも挫折した状態で、当日を迎えた次第です。
さて、L.Rossetti氏によれば、Politeiaを、あくまで対話の流れとして読むべし、決して論文扱いするべからず、とのことでした。
となると、そうした対話の流れを、もし論文化するとしたら、敢えて構成を変えてみるという方法が、あってもいいな、と私は考えました。
あと、哲学的な営みを表現するのあたっては、必ずしも論文形式でなくてもいいのだ、ということを、このとき改めて私は確認しました。
とくに私を含めた非研究者(一般人)の場合は、論文形式や対話形式や、それ以外の形式についても、言葉を遣って積極的に試しやすい立場にいるような気がします。
また、「どうしてもPoliteiaの第1巻の終わりのところまで読んで挫折してしまう云々」という旨の、一般参加者からの質問に対しては、
L.Brisson氏によれば、解説書を併用して読んだり、第1巻とか第10巻とかから読み始めたりすることを勧める、とのことでした。
やはり読みやすい順序と書かれている順序とは、必ずしも一致しない、というか、むしろ違っていて当たり前だよなぁ、と私は思いました。
会の終了後に、私が読み直したところ、Politeiaの構成については、岩波文庫の藤沢令夫氏の開設にあるとおり、
Politeia全10巻が五つの部分に分けることができて、途中で話題が逸れた後(第5-7巻)、元の流れに戻る、ということです。
以上を踏まえて、当方が今後、Politeiaを読む場合には、敢えてその構成を変えて
第1巻->第10巻->2->3->4->8->9->5->6->第7巻の順にしようと思います。
で、こうすることで何がどう変わるのか、と云いますと、
1.) 第7巻の終わりにあるとおり、うまい具合に議論が終わります(笑)。
2.) 第2巻の始めで、まだ議論から解放されなかったのは、
《ただ第1巻での遣り取りだけではなくて、第10巻での遣り取りもあって、エルの物語まで話した後であるにも拘わらず、議論がまだ続きそうだ》、という解釈になりそうです。
3.) 折角なので、この際、迂回などせずに、第4巻から第8巻に直結してしまいませう(笑)。
4.) 第9巻から第5巻に繋ぐと、たぶん《よい国というものが実際に在ろうと無かろうと、そういうよい国に参加したいと思う人は居る》という流れができそうです。
......まあ、こんなところですかね。
当方の云うことなんて、所詮は素人の戯言ですから、あまり気にしないで下さいね......。