それに向けて、スピノザに関する旧稿(ちょうど6年前のもの=デビュー前)を再公開致します。
G.Opera:SPINOZA OPERA,im Auftrag der Heidelberger Akademie der Wissenschaften,
herausgegeben von Carl Gebhardt, Heidelberg, C.Winter,1925.
ここは出雲ではないので、神在月とも云えず...
(HPML Mix)
aZ-W-NMJ-UT-EDB-QP-HG
「実在していることを」「その本質」と して「包んで」縺れてい「なく」ても(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02-03)、それは「把握されうる」のであって(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02)、その際には「みずから観念になった」もの「とともに」来て「一致すること」になる(Eth.1.Axiom.6:G.Opera II,47.01)。したがって、たとえ「帰結する」はずの「結果として」は(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.26)「不可能な」ものが「在る」としても(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.25-26)、何らかの「結果」が「帰結する」のは「必然的」だ(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.24-25)。
但し、「一方」で「把握されたもの」が概念として「包んで」縺れていても、「他方」で「把握されて」概念になってい「ない」ようなものは (Eth.1.Axiom.5:G.Opera II,46.30-31)、「みずからをとおして」「互いに」「知解されること」は「できない」(Eth.1.Axiom.5:G.Opera II,46.29-30)。つまりそれは「存在している」のが(Eth.1.Axiom.1:G.Opera II,46.21)「他において」(ibid.)「である」、ということであり、「それ」はまた(ibid.)、「公理」として自明なとおり (Eth.1.:G.Opera II,46.20)、原因として認識されるべきものを「包んで」縺れているうえ(Eth.1.Axiom.4:G.Opera II,46.27-28)、そうしたものに、すなわち「原因」として「認識」されるべきもの「に依存する」(Eth.1.Axiom.4:G.Opera II,46.27)。
結局、「みずからをとおして把握されて」概念になる「にちがいない」となれば (Eth.1.Axiom.2:G.Opera II,46.22-23)、それは「他をとおして把握されることはできない」(Eth.1.Axiom.2:G.Opera II,46.22)。
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aY--N-U-E-Q-H
「実在していることを」「その本質」として「包んで」縺れてい「ない」ならば(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02-03)、それはあたかも「実在しない」ものの「ように」なる(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02)。
すなわち「帰結する」はずの「結果として」(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.26)、「一方」で「把握されたもの」が概念として「包んで」縺れていても、「他方」では「把握されて」概念になってい「ない」のだ (Eth.1.Axiom.5:G.Opera II,46.30-31)。
とはいえ「存在している」かぎりは (Eth.1.Axiom.1:G.Opera II,46.21)、何か原因として認識されるべきものを「包んで」縺れているのであって(Eth.1.Axiom.4:G.Opera II,46.27-28)、これは「みずからをとおして把握されて」概念になる「にちがいない」(Eth.1.Axiom.2:G.Opera II,46.22-23)。
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aX-V-NKLI-URS-ECA-QO-HF
「実在していることを」「その本質」として「包んで」縺れてい「ない」ならば(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02-03)、それは「いかなるもの」であれ(Eth.1.Axiom.7:G.Opera II,47.02)、少なくとも「観念」としては「真なる」もの「にちがいない」(Eth.1.Axiom.6:G.Opera II,47.01)。
但し、「帰結する」はずの「結果として」は(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.26)、まず「与えられる」「原因」が「もし」「何ら」「決定されて」い「ない」ならば、また「反対に」(Eth.1.Axiom.3: G.Opera II,46.25)、「与えられた」ものが「原因」として「決定されて」、そこ「から」(Eth.1.Axiom.3:G.Opera II,46.24)「一方」で「把握されたもの」が概念として「包んで」縺れていても、「他方」で「把握されて」概念になってい「ない」のであれば (Eth.1.Axiom.5:G.Opera II,46.30-31)、「そうしたものが」「みずからとともに」「もっている」ものは、「互いに」「何ら」「共通して」い「ない」はずだ (Eth.1.Axiom.5:G.Opera II,46.29)。
要するに「存在している」かぎりで (Eth.1.Axiom.1:G.Opera II,46.21)「みずからにおいて」(ibid.)「すべて」のものが(ibid.)、「包んで」縺れているものは、原因として認識されるべきなので あって(Eth.1.Axiom.4:G.Opera II,46.27-28)、そうしたものは、「結果」として「認識」される(Eth.1.Axiom.4:G.Opera II,46.27)。こうして、「みずからをとおして把握されて」概念になる「にちがいない」のが(Eth.1.Axiom.2:G.Opera II,46.22-23)、「それ」である(Eth.1.Axiom.2:G.Opera II,46.22)。
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初出: 「番外編 -ここは出雲ではないので、神在月とも云えず...」"What a cool believes", 2007年10月31日