当方は今回も、一般の人が信仰してるはずの聖書を素直に読んでみるという試みに便乗するだけであり、べつに文献学的な考証をする気は、さらさらない(cf.文献B,pp.263-264)。
《素人の当方が、うっかり文献学的な考証の真似事なんぞをしようものなら、
それこそ、どっかの誰かさんたちから、怠け者扱いされたり無職疑惑が出たりして、厄介なことになる》、
と思って、前回投稿したら、
なかなかいい感じの反応があったので、
暫くはこの傾向でやってみようと思う。
ということで、本稿も、原典を使って遊ばずに、手持ちの翻訳で済ませることにしよう。
さて、創世記については、
「神さまは、なんども自分のことを『われら』と呼んでいるんだけれど、その理由については(そしてなぜ創世記だけそうなっているのかは)まったく説明がない」、という指摘がある(文献B,p.35)。
ほほぉ。
実際、聖書(新共同訳)によれば、
「我々にかたどり、我々に似せて」云々と「神」が仰っているし(創世記1:26)、
「人は我々の一人のように」云々と「主なる神」が仰せである(創世記3:22)。
「我々」という複数形で、ついでに「一人」と擬人化までなさっている。
そして、「我々は降って行って」云々と仰るのも、「主」だ(創世記11:7)。
創世記以外にも、気になる箇所がある。
ダニエル書である。
「ダニエル書でいちばん不思議なのは、神さまに対して多神的な扱いをしてるところ。神さまのことをしきりに『天国の神』『ある偉大な神』『われわれの神』そしてあげくには『神々の神』とまで言ってる。こういう言いぐさは、聖書ではこれまで一度も出てきていないし、いずれも全知全能の唯一神というのを、あいまいながらも逃げてる。ダニエル書の言い方だと、ぼくらの神さまは最高かもしれないけれど、でもほかにもいるんだよ、ということになりそうだ」(文献B,p.115)。
なるほど、「麻の衣」を着た「一人の人」という幻を見たのはダニエルだけだったようだ(ダニエル書10:05-07)。
とはいえ、その麻の衣を着た幻の人からは、
「どのような神よりも」云々とか、「すべての神にまさる神」とか(ダニエル書11:36)、
「先祖の神々」(ダニエル書11:37)とかいう言葉が出てる。
で、ダニエル自身は、
「わたしたちの主なる神」(ダニエル書9:14)だの、「わたしたちの神である主」(ダニエル書9:15)だの、「わたしたちの神」(ダニエル書9:17)だの、
と、敢えて《御自分たちの》神であることを云ってる。
ダニエルにとっての神は「天の神」(ダニエル書2:17-18)であり、それは「わたしの父祖の神」(ダニエル書2:23)とダニエルが祈ってるくらいだから、
きっと端的に、ダニエルは御自分の御先祖さんを大事にしてる、ということなのだろう。
王様ダレイオスも、ダニエルが「いつも拝んでいる神」のことは御存じで(ダニエル書6:17)、ダニエルは祈りと賛美を「自分の神に」捧げている(ダニエル書6:11)。
そういえば、ネブカドネツァル王も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが「自分の神以外にはいかなる神にも仕えず」云々と述べてたし(ダニエル書3:28)、
この王はダニエルに対し「あなたたちの神はまことに神々の神」(ダニエル書2:47)と云い、
他方で、この王に対し、「人間と住まいを共になさらぬ神々だけ」云々と言ってるのは、賢者たちなのだ(ダニエル書2:10-11)。
創世記とダニエル書を確認しただけとはいえ、
じつは世の中は多神的なのかもしれない。
あくまで《主なる》神は、なるほど唯一なのだろうが、少なくとも副なる神くらいは居るだろう。
敢えて神を特定している場合、それは、
神々のうちのリーダーのことかもしれないし、
あるいは御自分の家系において御先祖さんたちが拝んできた神のことかもしれない。
では、主なる神とは、いったいどのようなお方なのか?
「神さまはモーゼに、自分の名前は実は『嫉妬』だ、とおっしゃる」(文献B,p.49)。
なぁるほど。
なお、新共同訳の聖書では、モーゼのことはモーセと呼ばれ、嫉妬のことは熱情と訳されている。
主がモーセに云うには、「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である」(出エジプト記34:14)。
嫉妬深い主が、早速「ほかの神」に言及し、その直後から、「その神々」という語が連発し(出エジプト記34:15-16)、「鋳造の神々」(出エジプト記34:17)にまで言及する。
モーセがイスラエルの人々に伝えている(申命記4:44&5:01)箇所でも明らかだろうが、
主が「熱情の神である」からこそ(申命記6:15)、「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6:14)とされるのだ。
それで「主は唯一の主である」(申命記6:04)。
さて、これまで当方が読んできた範囲に限ってみれば、
ここでいう唯一とは、次のような三つの意味であろう。
1.) 役割として唯一なだけで、ほかの役割の神も居る。
なるほど、神々のなかでも、嫉妬という名の神は役割としては唯一なのだろう。
ほかに居るのは、きっと別の役割の神たち、たとえば愛という名の神など、にちがいない。
但し、どうやら、《(それこそ宇宙として、だとか、全知全能として、だとかいうように)そもそも神たる存在が唯一だ》、というわけではなさそうだ。
もしそうなら、そもそも神々なんていう表現自体があり得ないはずである。
2.) ほかの神たちに嫉妬しているから、主なる神は、御自分が唯一だと主張している。
もし他の神々が崇拝されたら、この主は嫉妬してしまう。
だからこそ、モーセやヨシュアなどに、この嫉妬深き主に一途たれ、と、戒律を伴って命ずることになる。
「神さまがモーゼにシナイ山で戒律を伝えたとき--もっとも聖書はそれを『命令』とか『法』と呼びたがる--それは10個なんかじゃすまないのだ。実はその数、全部で600近くに達している」(文献B,p.46)。
が、モーセにその戒律を伝えたのは、「自分の顔も見せず、気まぐれに人を撃ち殺して、求めるのは要するに自分を恐れろってだけの神」である(文献B,p.137)。
王の「各世代ごとに、神さまは自分の言うことをきくほうを支持するという方針」(文献B,p.77)であり、血に飢えすぎた「神さまが自分の契約を破るなんて、目新しくもない毎度のこと」だ(文献B,p.123)。
夥しい数の戒律の厳しさは、
あくまで主なる神から嫉妬されるか否か、の規準であり、
べつに正しさや真偽や善悪の基準ではなさそうだ。
つまり、戒律を守れば、たぶん主からは嫉妬されずに済むだろう、滅ぼされずに済むだろう(但し、絶対に大丈夫、とは云いきれない)。
嫉妬深き主なる神のほかに神々がもし存在してなければ、
少なくともこの主なる神が他の神々に嫉妬することはないのだから、
戒律もこんなに厳しいものではなかったかもしれない。
(でもこの主は人間にも嫉妬してるはずだから、戒律の厳しさはあまり変わんないかもね)
3.) 嫉妬深く執念深き神を怒らせると滅ぼされるから、選ばれた人々も、この神を主として唯一だ、とせざるを得ない。
ヨシュアが当時のイスラエルの民に伝えているところによれば、「熱情の神」を捨てて「外国の神々に」仕えようものなら、幸せになった後でも、一転して災いが下され、滅ぼし尽くされる、のだそうな(ヨシュア記24:19)。
では、そろそろこの辺で、本稿も締めくくろう。
「自分の神を知る民は確固として行動する」(ダニエル書11:32)。
「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(ダニエル書6:17)。
皆も御自分にとっての神を大切にしよう。
引用・参考文献:
文献A: 共同訳聖書実行委員会 訳『聖書 新共同訳』(日本聖書協会、1987-88)
文献B: ケン・スミス著/山形浩生 訳『誰も教えてくれない聖書の読み方』(晶文社、2001)
* The Elite-Deleter開発を記念して、プレーンテキスト=F版を追記しました。[2019/jan./10]
-----以降F版表記---
さて、創世記については、
神さまは、なんども自分のことを『われら』と呼んでいるんだけれど、その理由については[そしてなぜ創世記だけそうなっているのかは]まったく説明がない、という指摘がある。
ほほぉ。
実際、聖書[新共同訳]によれば、
我々にかたどり、我々に似せて云々と神が仰っているし、
人は我々の一人のように云々と主なる神が仰せである。
我々という複数形で、ついでに一人と擬人化までなさっている。
そして、我々は降って行って云々と仰るのも、主だ。
創世記以外にも、気になる箇所がある。
ダニエル書である。
ダニエル書でいちばん不思議なのは、神さまに対して多神的な扱いをしてるところ。神さまのことをしきりに『天国の神』『ある偉大な神』『われわれの神』そしてあげくには『神々の神』とまで言ってる。こういう言いぐさは、聖書ではこれまで一度も出てきていないし、いずれも全知全能の唯一神というのを、あいまいながらも逃げてる。ダニエル書の言い方だと、ぼくらの神さまは最高かもしれないけれど、でもほかにもいるんだよ、ということになりそうだ。
なるほど、麻の衣を着た一人の人という幻を見たのはダニエルだけだったようだ。
とはいえ、その麻の衣を着た幻の人からは、
どのような神よりも云々とか、すべての神にまさる神とか、
先祖の神々とかいう言葉が出てる。
で、ダニエル自身は、
わたしたちの主なる神だの、わたしたちの神である主だの、わたしたちの神だの、
と、敢えて《御自分たちの》神であることを云ってる。
ダニエルにとっての神は天の神であり、それはわたしの父祖の神とダニエルが祈ってるくらいだから、
きっと端的に、ダニエルは御自分の御先祖さんを大事にしてる、ということなのだろう。
王様ダレイオスも、ダニエルがいつも拝んでいる神のことは御存じで、ダニエルは祈りと賛美を自分の神に捧げている。
そういえば、ネブカドネツァル王も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが自分の神以外にはいかなる神にも仕えず云々と述べてたし、
この王はダニエルに対しあなたたちの神はまことに神々の神と云い、
他方で、この王に対し、人間と住まいを共になさらぬ神々だけ云々と言ってるのは、賢者たちなのだ。
創世記とダニエル書を確認しただけとはいえ、
じつは世の中は多神的なのかもしれない。
あくまで《主なる》神は、なるほど唯一なのだろうが、少なくとも副なる神くらいは居るだろう。
敢えて神を特定している場合、それは、
神々のうちのリーダーのことかもしれないし、
あるいは御自分の家系において御先祖さんたちが拝んできた神のことかもしれない。
では、主なる神とは、いったいどのようなお方なのか?
神さまはモーゼに、自分の名前は実は『嫉妬』だ、とおっしゃる。
なぁるほど。
なお、新共同訳の聖書では、モーゼのことはモーセと呼ばれ、嫉妬のことは熱情と訳されている。
主がモーセに云うには、あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。
嫉妬深い主が、早速ほかの神に言及し、その直後から、その神々という語が連発し、鋳造の神々にまで言及する。
モーセがイスラエルの人々に伝えている箇所でも明らかだろうが、
主が熱情の神であるからこそ、他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならないとされるのだ。
それで主は唯一の主である。
さて、これまで当方が読んできた範囲に限ってみれば、
ここでいう唯一とは、次のような三つの意味であろう。
1. 役割として唯一なだけで、ほかの役割の神も居る。
なるほど、神々のなかでも、嫉妬という名の神は役割としては唯一なのだろう。
ほかに居るのは、きっと別の役割の神たち、たとえば愛という名の神など、にちがいない。
但し、どうやら、《[それこそ宇宙として、だとか、全知全能として、だとかいうようにそもそも神たる存在が唯一だ》、というわけではなさそうだ。
もしそうなら、そもそも神々なんていう表現自体があり得ないはずである。
2. ほかの神たちに嫉妬しているから、主なる神は、御自分が唯一だと主張している。
もし他の神々が崇拝されたら、この主は嫉妬してしまう。
だからこそ、モーセやヨシュアなどに、この嫉妬深き主に一途たれ、と、戒律を伴って命ずることになる。
神さまがモーゼにシナイ山で戒律を伝えたとき--もっとも聖書はそれを『命令』とか『法』と呼びたがる--それは10個なんかじゃすまないのだ。実はその数、全部で600近くに達している。
が、モーセにその戒律を伝えたのは、自分の顔も見せず、気まぐれに人を撃ち殺して、求めるのは要するに自分を恐れろってだけの神である。
王の各世代ごとに、神さまは自分の言うことをきくほうを支持するという方針であり、血に飢えすぎた神さまが自分の契約を破るなんて、目新しくもない毎度のことだ。
夥しい数の戒律の厳しさは、
あくまで主なる神から嫉妬されるか否か、の規準であり、
べつに正しさや真偽や善悪の基準ではなさそうだ。
つまり、戒律を守れば、たぶん主からは嫉妬されずに済むだろう、滅ぼされずに済むだろう[但し、絶対に大丈夫、とは云いきれない]。
嫉妬深き主なる神のほかに神々がもし存在してなければ、
少なくともこの主なる神が他の神々に嫉妬することはないのだから、
戒律もこんなに厳しいものではなかったかもしれない。
[でもこの主は人間にも嫉妬してるはずだから、戒律の厳しさはあまり変わんないかもね]
3. 嫉妬深く執念深き神を怒らせると滅ぼされるから、選ばれた人々も、この神を主として唯一だ、とせざるを得ない。
ヨシュアが当時のイスラエルの民に伝えているところによれば、熱情の神を捨てて外国の神々に仕えようものなら、幸せになった後でも、一転して災いが下され、滅ぼし尽くされる、のだそうな。
では、そろそろこの辺で、本稿も締めくくろう。
自分の神を知る民は確固として行動する。
お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。
皆も御自分にとっての神を大切にしよう。
-----以上F版表記---