デカルト『方法叙説』第一部の初めの段落・パラグラフ。
当方の出来心で突如始まった処理ですが、
めでたく麗しき三枚おろしとなりました。
ひょっとして、ひょっとしたら、
処理するだけなら、
日本を台風が通過するのと同じくらいの速さで、
できるかもね。
(処理についての説明で、当方、もたもたしております)
さて、
原文では一箇所のところが、
当方の処理によって、三重構造になっていて、
今、若干、鬱陶しい状態になっていますよね。
これを、まず、三重構造だけ維持したまま、全部繋げてみましょうか。
今まで出来上がった部品を、これから、大体の内容で、分類していくんですけど、
ん~そうだなぁ~、
(良い子・悪い子・普通の子じゃないけれど)
優れてる場合の話、劣ってる場合の話、どちらでもない普通の話(これずばり中庸です)、
の三つに分類しましょう。
(順に、ア、イ、ウ、としますね)
+++++
ア[1.A101-A102-A106-A107]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている事物というのは、感じが良いのである。
感じの良さなら(それについては)充分に授かっている、と、各自で思っているかぎりは、習慣づくことは少しもないのだが、
せっかく良い感じがしているのに、さらに良い感じになりたがる、ということがある。
ウ[1.A101-A103-A105-A107]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている事物から、良い感じがしている、という人々でさえ、
いざ、他のあらゆる事物で充足させようものなら、
せっかく良い感じがしているのに、さらに良い感じになりたがる。
イ[1.A101-A104-A107]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている事物から、良い感じがしている、というのに、
気難しい連中は、せっかく良い感じがしていても、さらに良い感じになりたがる。
ア[1.A201-A204-A207-A211-A212]
(感じの良さという)このことにおいて、どうやら、皆がみずからを欺くかの如くに思い違いをするらしいが、それは真ならず。
判断さえ良ければ、(=適正に判断する力があれば、)
すべての人間は、等しく、自然なのだ(自然で居られるのだ。)
(=すべての人間に等しく有るのは、自然なのだ。)
我々が自身で考えを導く際の道筋は、さまざまに異なっていて、
しかも、我々が考察している事物/物事は、同一ではない。
ウ[1.A203-A206-A208-A210-A212]
なるほど、良い感じ、とか道理で、とか、理に適っているとか理(ことわり)とか称されているものには、力があるが、そもそも、
我々の意見に違いが出てこないのは、
もっぱら同一の事物/物事しか、我々が考察していないからである。
イ[1.A202-A205-A209-A212]
これが立証しているところによると、むしろ、
真を偽から区別する(力の)ことで、
一方の連中が他方の連中に比べて理性的だ(理に適っている)、というのであれば、
事物/物事は同一でも、我々のおこなっているのは考察ではない、ということだ。
イ[1.A301-A304]
それでは充分ではない、というのであれば、その気質なり精神なりをうまく応用して適応することだな。
ウ[1.A302-A304]
まず、持っている気質なり精神なりが良い、ということ。そして、その気質なり精神なりをうまく応用して適応する、ということだ。
ア[1.A303-A304]
原理原則がある、とすれば、それは、その気質なり精神なりをうまく応用して適応する、ということだな。
イ[1.A401-A402-A405-A408]
魂がきわめて偉大だと、許容できる邪悪さも絶大なので、もっとたくさん前進できるはずなのに、真っ当な道からおのずと逸れていく。
ウ[1.A401-A404-A406-A408]
魂がきわめて偉大であれば、許容できる(範囲な)のだろうが、
強かにゆっくりと歩むことしかない、という人々だって、
もしかしたら、常に真っ直ぐな(直線的な、というか、正しく真っ当な)途に沿っているのかもしれないし、
あるいは、(その真っ当な道から)おのずと逸れていくのかもしれない。
ア[1.A401-A403-A407-A408]
魂がきわめて偉大だと、許容できる美徳も同じく絶大なのだが、だからといって、直進しないで走っていると、真っ当な道からおのずと逸れていく。
++++++++
『方法叙説』の場合は、内容が具体的なので、
案外、見分けがつき易かったと思います。
(当方、『省察』のときは、議論されているテーマで分類してました。自分でも訳わかんなかったです)
では、ア、イ、ウ、のそれぞれのグループのなかで、順番に(原文の流れのとおりに=部品の番号順に)、
繋いでいきましょうかね。
今回だと、「1.A1xx-A2xx-A3xx-A4xx」という順です。
繋ぎながら、訳語や云い回しも、模索していきますよ。
接続詞なんかも、臨機応変にね。
「ア」のグループ:
ア[1.A101-A102-A106-A107]
+[1.A201-A204-A207-A211-A212]
+[1.A303-A304]
+[1.A401-A403-A407-A408]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている物事というのは、感じが良いのである。
感じの良さなら(それについては)充分に授かっている、と、各自で思っているかぎりは、習慣づくことは少しもないことなのだが、
せっかく良い感じがしているのに、さらに良い感じになりたがる、ということもある。
(感じの良さという)このことにおいて、どうやら、皆がみずからを欺くかの如くに思い違いをするらしいが、それは真ならず。
判断さえ良ければ、すべての人間は、等しく、自然なのだ(自然で居られるのだ。)
我々が自身で考えを導く際の道筋は、さまざまに異なっていて、
しかも、我々が考察している物事は、同一ではない。
もしここに原理原則がある、とすれば、それは、その気質なり精神なりをうまく応用して適応する、ということだな。
とりわけ、魂がきわめて偉大だと、許容できる美徳も同じく絶大なのだが、
だからといって、直進しないで走っていると、真っ当な道からおのずと逸れていくよ。
さあ、どうですかぁ~。
原文の面影が有るような無いような結果。
でも、解りやすいでしょ?
「イ」のグループ:
イ[1.A101-A104-A107]
+[1.A202-A205-A209-A212]
+[1.A301-A304]
+[1.A401-A402-A405-A408]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている物事から、良い感じがしている、というのに、
気難しい連中は、せっかく良い感じがしていても、さらに良い感じになりたがる。
これが立証しているのは、むしろ、
真を偽から区別する(力の)ことであり、
もし一方の連中が他方の連中に比べて理性的だ(理に適っている)、というのであれば、
いくら物事は同一でも、我々のおこなっているのは考察ではない、ということだ。
したがって、もしそれでは充分ではない、というのであれば、
その気質なり精神なりをうまく応用して適応することだな。
とりわけ、魂がきわめて偉大だと、許容できる邪悪さも絶大だから、
"もっとたくさん前進できるはずなのに、真っ当な道からおのずと逸れていく"、なんてこともあるんだよ。
ちょっと解りづらかったですかねぇ。
それは当方の処理が下手なのか、原文自体のせいなのか、どっちかです。
m(_ _)m
気を取り直して、
「ウ」のグループ:
ウ[1.A101-A103-A105-A107]
+[1.A203-A206-A208-A210-A212]
+[1.A302-A304]
+[1.A401-A404-A406-A408]
この世界で分かち合うなり分かり合うなりされている物事から、良い感じがしている、という人々でさえ、
いざ、他のあらゆる物事で充足させようものなら、
せっかく良い感じがしているのに、さらに良い感じになりたがる。
なるほど、良い感じ、とか道理で、とか、理に適っている、とか称されているものには、力があるが、
そもそも、我々の意見に違いが出てこないのは、
もっぱら同一の物事しか、我々が考察していないからである。
すなわち、まず、持っている気質なり精神なりが良い、ということ。
そして、その気質なり精神なりをうまく応用して適応する、ということだ。
きっと、魂がきわめて偉大であれば、許容できる(範囲な)のだろうが、
強かにゆっくりと歩むことしかない、という人々だって、
もしかしたら、常に真っ直ぐな(直線的な、というか、正しく真っ当な)途に沿っているのかもしれないし、
あるいは、(その真っ当な道から)おのずと逸れていくのかもしれないね。
一番、中立的な内容で、要点の詰まった結果になったと思います。
原文よりも文章量が増えて、
しかも、似たような内容のが三つもあるので、
煩わしいかもしれませんが、
誤解を招かないように表現する際には、
短すぎず長すぎない文章量、というものが必要なのです。
あと、三重構造に関連して申しますと、
デカルトの提案する読み方、というのがありましてね。
本当のデカルトさんが読者に本の読み方を提案する (読書猿Classic: between / beyond readers)
哲学書の同じ個所を三回も読むのは、
大抵の場合、工夫しないと飽きるからね。(平気な人が少し羨ましい)
たとえば当方のやり方で、三つに分けて、
それぞれ一回ずつ読むのも、有りだよね。