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2019年2月9日

「省察:考察を省こう 〜考えてるほど暇ぢゃねゑ〜」type C

「省察:考察を省こう 〜考えてるほど暇ぢゃねゑ〜」

* 第一省察の冒頭と第六省察の末尾を、細かく砕いて混ぜたよ。


[type C]
 この考察が寄与するものはひじょうに多い。
だからこそついに私は本気で自由に、私自身の諸々の意見を、このように全般的に打倒することに没頭するつもりだった。
固より、私が知るところによると、すべての感覚は、身体にとって好都合なことに関わるものをめぐっては、真なるものを報じる頻度がはるかに高い。
しかも、それらの感覚が偽なるものを報じた場合でも、さらに記憶と知性とでもってすれば、私はもはや恐れなくて済む。
ということで機会よく、きょう、私の精神はすべての心配から解放されてしまった。
何せ、私に常日頃、感覚から表示されるものが偽ではないのか、といった笑いに値するような至上の疑いはとりわけ、睡眠についてなされたので、もし長い間私が延期してきたならば、後々まで咎められるのは、私 自身だったはずなのだが、今、私が気づくところによれば、ひじょうに大きな差異があるのは、睡眠中に出くわすものと覚醒しているときに出くわすものとの間なのだ。もし私が覚醒している際にただちに消え失せてしまっていて、のちになっても、いったいどこから来たのか、さっぱり私には判らないというのであれば、それは私の脳のなかで作成された幻想である。
実に、そうした諸々の事物に私が出くわした場合に、それらの事物がどこから、どこへ、いつ、私に到来したのか、ということを知得したうえで、それらの事物を残りの生活全体に私が連結してみて何も中断されていないのであれば、それらの事物に出くわしたのは、私が覚醒しているときである。
以上のことができるくらいに、私は成熟した年頃を、期待していたにすぎない。
ところで私が感覚のすべてと記憶と知性とを召集したうえで、それらの事物を吟味した後であるにも拘わらず、それらがそのほかのものと何かしら矛盾する場合もあるが、その際には、それこそ幼少の頃に遡ってでもして、最初の土台から新規に開始するつもりになっていた。
しかし神は欺かないということにすでに数年前に私は気づいており、ひじょうに多くのものについて、むしろ認容されるべきなのは、個別的な事物をめぐってしばしば過誤に晒されているのが人間の生活だ、ということである。

↑[type C]
 「この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,89.08/E.94.06)。
だからこそ「ついに」「私は」「本気で」「自由に」、「私」自身の「諸々の意見」を、このように「全般的に」「打倒」することに「没頭するつもりだ」った(1.A404:AT.VII,18.0203/E.08.02-03)。
「固より」、「私が知る」ところによると、「すべての感覚は」、身体にとって好都合なことに関わるものを「めぐって」は(6.W201:AT.VII,89.11-12/E.94.10-11)、「真なるもの」を「報じる」頻度が「はるかに」高い(6.W203:AT.VII,89.12-13/E.94.12-13)。
しかも、それらの感覚が「偽なるもの」を報じた場合でも(ibid.:AT.VII,89.13/E.94.12-13)、さらに「記憶」(6.W205:AT.VII,89.15/E.94.14-15)と「知性」(6.W207:AT.VII,89.16/E.94.16)とでもってすれば、「私はもはや恐れなくて」済む(6.W209:AT.VII,89.17-18/E.94.17-18)。
ということで「機会よく」、「きょう」、「私」の「精神」は「すべての心配から」「解放」されてしまった(1.A401:AT.VII,17.1318.01/E.07.15-16)。
何せ、「私」に常日頃、感覚から表示されるものが「偽ではないのか」(ibid.&6.W211:AT.VII,89.17-18/E.94.19)、といった「笑いに値するような」(6.W302:AT.VII,89.19-20/E.94.20)「至上の」疑いは「とりわけ」、「睡眠について」(6.W401:AT.VII,89.20-21/E.94.21-22)なされたので、もし「長い間」「私が延期してきた」ならば、「後々まで」「咎」められるのは、「私自身だったはず」(1.A301:AT.VII,17.10-11/E.07.12-14)なのだが、「今、私が気づく」ところによれば、「ひじょうに大きな差異がある」のは、睡眠中に出くわすものと(6.W501:AT.VII,89.21-23/E.94.23-24)「覚醒しているときに出くわすもの」(6.W503:AT.VII,89.24-25/E.94.26-27)との間なのだ。もし「私が覚醒している際に」(6.W505:AT.VII,89.25-26/E.94.28)「ただちに消え失せて」しまっていて、「のちに」(6.W507:AT.VII,89.26-27/E.94.28-29)なっても、いったい「どこから来たのか」、「さっぱり scilicet」(6.W509:AT.VII,89.27-28/E.94.29-30)「私には」判らない(6.W511:AT.VII,89.28/E.95.01)というのであれば、それは「私の脳のなかで作成された幻想 phantasma」である(6.W513:AT.VII,90.01/E.95.01-02)。
「実に、そうした諸々の事物」に「私」が「出くわし」た場合に(6.W601:AT.VII,90.02-03/E.95.03-04)、それらの事物が「どこから、どこへ、いつ、私に到来」したのか(6.W603:AT.VII,90.03-04/E.95.04-05)、ということを「知得」したうえで、「それら」の事物を「残りの生活全体に私が連結して」みて何も「中断」されていない(6.W605:AT.VII,90.04-05/E.95.05-07)のであれば、それらの事物に「出くわし」たのは、「私」が「覚醒しているとき」である(6.W608:AT.VII,90.06/E.95.08)。
以上のことができるくらいに、「私は」成熟した「年頃を」、「期待していた」(1.A202:AT.VII,17.08-09/E.07.10)にすぎない。
ところで「私」が「感覚のすべてと記憶と知性とを召集した」うえで、「それら」の事物を「吟味」した「後で」ある(6.W702:AT.VII,90.08-09/E.95.10-12)にも拘わらず、それらが「そのほかのものと」何かしら「矛盾する」(6.W704:AT.VII,90.09-10/E.95.12)場合もあるが、その際には、それこそ「幼少の頃」(1.A102:AT.VII,17.03/E.07.02-03)に遡 ってでもして、「最初の土台から」「新規に開始する」(1.A106:AT.VII,17.06/E.07.06-07)つもり になっていた。
しかし「神は欺かない」(6.W801:AT.VII,90.10-11/E.95.13-14)ということに「すでに数年前に」「私は気づいて」おり、ひじょうに「多くのもの」について (1.A101:AT.VII,17.02/E.07.01-02)、むしろ「認容されるべき」なのは、「個別的な事物をめぐってしばしば過誤に晒されている」のが「人間の生活だ」、ということである(6.W902:AT.VII,90.14-15/E.95.17-19)。


arranged by K.masamix "KIXAN" as the SHYNAMITES, 2019.


[引用・参考文献]

AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
  cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991),
  cf.Meditetiones de Prima Philosophia Lateinisch/Deutsch, übersetzt und herausgegeben von Gerhart SCHMIDT, Philipp Reclam Jun.,Stuttgart,1986.