障害者就労支援の相談員さんと、
初対面で小一時間話している間に、
当方の自己分析から、
当方が哲学に関与していたことを、
先方は見抜いてくださった。
先方は、哲学は分からないと仰せだけど、
どうやら当方の発言が哲学的に映ったようだ。
もし哲学研究を支えにしていなかったら、
既に自傷行為かそれ以上の危険なことをしていても不思議ではなかった。
哲学研究が役に立たないというのは、あくまで一般的な見解であって、
自分にとって何がどう役に立つかは、
正直、生きてみないと判らない。
苦境のときに最も身近に在ったものが、今後の人生や運命を左右する。
哲学研究は少なくとも当方の実生活の役に立った。
それどころか、一時期の当方にとって、哲学研究は命綱だった。
内面に溜まりに溜まった事実を言語化するのに、
どうしても必要だった。
よりによって、非物質的な事実や前例の乏しい事実ばかりだった。
自力で言語化できなければ、
誰にも伝わらないし、
助けを求められないし、
今みたいに支援も受けられない。
当方の場合、支援に至るまでにも、
時代の変化が必要だった。
診断基準の変更とか、世間の啓発とか。
苦痛を訴えたところで、すぐに助かるわけではなく、
SNSに文字列で書き置きして待機する期間も長かった。
その待機期間にも、自暴自棄をなるべく抑制して、耐え抜いて今日に至ったわけである。
これは、経済活動や社会貢献に劣らず、多忙で生産的な営みである。
しかし、哲学が経済や社会に貢献していないことを理由に、
それに携わる当方のことを、怠けているとか甘えているとか非難して、
準備不足の当方を経済活動や社会貢献に強引に参加させようとしてきた輩が居た。
この連中がやろうとしているのは、当方の命綱を剥奪したり切断したりすることだ。
命綱を失ったら、働いて稼ぐどころか、病んで滅んでしまう。
ようやく今、
現実の人間に頼れて、
AIに手伝ってもらって、
哲学研究も命綱から制作物に落ち着いた。